蜷台コ募悉譚・縺ョ句

April 0841997

 たけの子や畠隣に悪太郎

                           向井去来

く知られた芭蕉七部集のなかでも、『猿蓑』(元禄4年・1691年)は蕉風俳諧の円熟期の収穫とされるが、この句は猿蓑集巻之二・夏の部に登場する。去来の句のすぐ前に凡兆の「竹の子の力を誰にたとふべき」、すぐ後に芭蕉の「たけのこや稚き時の絵のすさび」がならぶが、いずれも理屈でもたつき、去来の直接的な明解さに及ばない。ニョキとはえ出たたけの子を隣りの土地から見つめている腕白小僧。たけの子のかわいさに柄にもなく見とれているが、じつは盗もうかいたずらしようかと悪智恵をめぐらしているようだ。俳句では古くからたけの子と子どもの連関が多く詠まれているらしいが、ここでは憎まれ小僧の"悪太郎"であるのがいかにも野趣があり、両者の対比が生きている。こうした健やかで愉快な初夏の情景が、今でもどこかに残っているだろうか。(八木忠栄)


January 2112001

 おうおうといへど敲くや雪の門

                           向井去来

蕉が「関西の俳諧奉行」と言った去来の代表作。「敲く」は「たたく」。門をたたく者があるので、なかから「おうおう」と応えたが、聞こえないのか気が急いているのか、まだたたきつづけている。「雪の門」の「雪」の降りしきる様子が、何も書かれてはいないが、目に見えるようだ。さらには、「おうおう」と応える作者の声までもが聞こえてくる。家のなかをゆったりと戸口に出ていく作者と、表をドンドンとたたく訪問者との息遣いの対比が絶妙だ。ドアチャイムやドアホンなどなかった時代には、訪問者はみなこのように門をたたいた。あるいは、大声で来訪を告げた。元禄の昔はもちろんだが、戦後しばらくまでも同様だった。子供の頃、友人宅に遊びに出かけたときは、たいてい大声で名前を呼んだものである。「○○ちゃん、アソぼうよ」と、まことに直截な挨拶を送っていた。何度呼んでも応えがないときもあり、玄関の扉に耳をくっつけるようにしてナカの様子をうかがったりした。他家を訪問するときだけではなく、商店に入るときも挨拶が必要だった。山口の田舎では「ごめんさんせ」と入ったが、「ごめんください」の地方語だ。「ごめんさんせ」と言うのが、最初はなんとなく大人ぶっているようで、気恥ずかしかったことを覚えている。いまでは、たたくことも声を出すこともない。誰もがヌーッと、どこにでも入っていく。便利な世の中になったものだが、「ごめんさんせ」の世代にはどこか不気味だ。このところ我が家のチャイムは不調で、ボタンを押しても鳴らなかったりする。そんなときに必ず扉をたたくのは、宅配便の人。きっと「原点に戻れ」と、マニュアルに書いてあるのだろう。「おうおう」と応えても聞こえないので、扉を開けるまでたたいてくれる。ご苦労様です。(清水哲男)


February 2722003

 うき友にかまれて猫の空ながめ

                           向井去来

語は見当たらないが、句の全体的な意味から「猫の恋」で春。「うき友」は「憂き友」。憎からずおもっていた相手に近寄っていったら、凄い剣幕で「か(噛)まれて」しまった。その後の猫の様子を詠んでいる。失恋だ。何が起きたのか、何故噛まれたのかもよくわからず、ぼおっと空を眺めている猫の姿は、どこか佃公彦あたりの漫画にも通じるようなユーモアを感じさせる。おおかたの現代人はこう読むだろうし、それでもよいのだけれど、生真面目な去来の本意としては、もう少し深刻に読んでほしいというところがあったかもしれない。というのも、本来「ながめ」とは遠くを見渡すことよりも、見つめながら「物思いにふけること」を一義としたからだ。「わが身世にふるながめせしまに」など。つまり、この猫は単に呆然と空を眺めているのではなく、失恋した人間と同じように物思いにふけっているというわけで、一歩も二歩も猫の内面に踏み込んでいる。さぞや苦しかろうと、作者は感情移入しているのだ。こう読んでみると、ユーモアよりもペーソスが滲み出てきて、句の姿はがらりと変わってしまう。となれば、この句、実は猫に託して自分のことを詠んだのではないか。うがち過ぎではあろうが、そんなふうに読んだとしても、いちがいに誤読だとは言えないと思う。『猿蓑』所載。(清水哲男)


March 1432010

 手をはなつ中に落ちけりおぼろ月

                           向井去来

味をたどってゆく前に、一読、なにかぐっとくるなと感じる句があります。それはおそらく、語と語との関係性以前に、語それぞれが、すでにきれいな姿をもち、わたしたちに与えられてしまう場合です。本日は、まさにそのように感じることのできる句です。「手」「はなつ」「落ちけり」「おぼろ」「月」、どれも十分に魅惑的に出来上がっています。さて、「手をはなつ」というのですから、それまで握り合っていた手を放すということ、つまりは別れの場面なのだと思います。その、手と手が離れた空間の中に、朧月がちょうど落ちてゆくというのです。ということは、作者の視点は別れる人たちの中間にあることになりますが、そこはそこ、作者の想像による視点の移動と考えたほうがよいのでしょう。別れてゆくつらさを感じているのは、まさに作者自身であり、それまで握っていた手が、大きさの違う異性のものであると感じてしまうのは、「おぼろ月」という語から発散されるロマンチシズムによるもののようです。『俳句大観』(1971・明治書院)所載。(松下育男)




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