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April 1041997

 あをあをと空を残して蝶分れ

                           大野林火

みあって舞いのぼった蝶が、空中でパッと二つに分れたのだ。その後の青空の美しさ。大野林火の耽美的傾向を代表する作として知られるこの句は、昭和16年作、句集『早桃』に収められている。同じ16年作に、「瓶の芒野にあるごとく夕日せり」という句もあるが、いずれも単純な構図の中に作者の美意識がよく顕れている。こうした句からも分るように、林火は自他共に許す抒情派であるが、句作とともに文章をよくし、随筆集『行雲流水』評論集『近代俳句の観賞と批評』など句集以外の著作も多い。明治37年生れ、臼田亜浪門。昭和21年、俳誌「濱」創刊主宰、同53年、俳人協会会長就任。同57年8月21日没。「先師の萩盛りの頃やわが死ぬ日」が辞世の句。先師は亜浪。(大串章)


May 2251997

 風知つてうごく蚊帳吊りぐさばかり

                           大野林火

句の感想を書いていて困るのは、昔は誰でも知っていた草木の名前などを知らない人が増えてきたことだ。「蚊帳吊りぐさ(草)」も、もはやその一つと言ってよいだろう。いわば「教養」という引き出しに入ってしまった感のあるこの雑草は、そこらへんの畑や畦道に長い茎(20-70センチほど)を真っ直ぐにすっと伸ばして生えている。だから、この句のように、微風にもいちはやく敏感に反応するというわけだ。茎の断面が三角形で、上下を残して二つに割いていくと方形ができ、それが「蚊帳」を連想させるところから、この名がついた。「蚊帳吊りぐさ」はおろか「蚊帳」すらも忘れられていく時代に、このような佳句もまた、少数者の「教養」の引き出しにしまいこまれていくのであろうか。(清水哲男)


July 2571997

 百日紅この叔父死せば来ん家か

                           大野林火

起でもない話だが、この家が代替わりすれば、こうやって毎夏訪れることもなくなるのだろう。叔父も老齢だ。何事もなかったように、庭の百日紅(さるすべり)だけは咲きつづけるのだろうけれど……。百日紅の花は勢いがよく花期も長いだけに、しばしば逆に死のイメージと結びつけられてきた。独特の花の赤い色が、そうした連想をさらに助長するのかもしれない。鷲谷七菜子に「葬終へし箒の音や百日紅」がある。(清水哲男)


October 21101998

 汽罐車の火夫に故郷の夜の稲架

                           大野林火

夫(かふ)は、汽罐車の罐焚きのこと。稲架は、刈り取った稲を乾燥させるための木組み(ないしは竹組み)のことだが、これを「はざ」と呼ぶのは何故だろうか。私の田舎(山口県)では、単に「いねかけ」と言っていたような記憶がある。稲城という地名があるが、この稲城も稲架のことである。ところで、この句は身延線で汽罐車を見た際のフィクションだと、林火自身が述べている。「火夫は、まだ若い。いま汽罐車はその故郷を通過している。沿線には稲架が立ち並び、その数や厚みで、今年の稔りがどうであったかはこの火夫にすぐ知られよう。そこには父母・兄弟の手掛けた稲架も交っていよう。罐焚きの石炭をくべる手に一段と力の入ったことであろう。この句、そうした空想のもとになっている」。空想にせよ、この国の産業が農業ベースから外れてきはじめた頃(1964)、生まれ育った土地を離れて働く者の哀感がよく伝わってくる。夜の汽罐車を、走らせる側からとらえた目も出色だ。『雪華』(1965)所収。(清水哲男)


March 2531999

 紅枝垂雨にまかせて紅流す

                           鍵和田釉子

枝垂(べにしだれ)は、淡紅色の花が咲く枝垂桜のこと。京都・平安神宮神苑の紅枝垂桜は有名だ。長く伸びて柳のように垂れた枝にたくさんの花がついた姿は、それだけでも豪奢の感じを受ける。句では、その上に、春の柔らかい雨が、次から次へとかかってはすべり落ちている。豪奢も豪奢、この世のものとは思われぬほどの贅沢な美しさだ。花に嵐は迷惑だが、花に雨の情緒は纏綿(てんめん)として息をのませる。つい最近、東京は小石川後楽園で、このような雨の枝垂を見たばかりなので、余計に心にしみる句となった。枝垂桜で思いだした句に、大野林火の「月光裡しだれてさくらけぶらへり」という名句がある。しかし、このような月と桜の取り合わせは昔からよくあるけれど、枝垂桜に雨を流してみせた句は珍しいのではなかろうか。枝垂桜の生態によくかなった描写で、少しも力んだり無理をしていないところが素晴らしい。子供の頃に、花づくりに熱中したことがあるという作者ならではの観察眼によった堂々の傑作と言える。『花詞』(ふらんす堂文庫・1996)所収。(清水哲男)

[お断り]作者名の「ゆうこ」が「釉子」となっていますが、正しくは「のぎへん」に「由」という字です。ただし、この漢字は現在のワープロにはありません。作字をしてグラフィック化することも考えたのですが、当サイトのシステム上の問題が生じるため、断念しました。苦肉の策でこのように表記しましたが、誤記は誤記です。お詫びいたします。指摘してくださった方、ありがとうございました。それにしても、何かよい方法はないものでしょうか。この問題を解決しないと、鍵和田さんの作品は取り上げられなくなりますので。


May 3152000

 蟇歩くさみしきときはさみしと言へ

                           大野林火

。この場合は「ひき」と読ませているが、他に「ひきがえる」「がまがえる」「がま」とも。容貌怪異にして動作の鈍重なことから、芝居などでは妖怪のように扱われたりする。実際、こやつが暮れ方の庭の真ん中あたりに鎮座していると、ぎょっとさせられる。追ってもなかなか逃げないので、ますます不気味だ。しかし、研究者によると、その性温厚にして争いを好まない動物。なわばり争いはまったくなく、動物界きっての平和主義者なのだという。蚊などの虫を捕食してくれるから、無害有益。蟇は「見かけによらない」のだ。そんな蟇がのそりのそりと歩いている様子は、句のようにさみしさに耐えているようにも思われる。ここで作者は思わずも、さみしいのだったら、黙っていないで「さみしと言へ」と声をかけたくなった。励ましたくなった。ひるがえって、このときの作者の心中を推し量ると、やはり何かの「さみしさ」に耐えていたのだろうと思われる。その気持ちが、さみしげに歩行する蟇の姿に吸い寄せられた。裏を返せば、こうして蟇に呼びかけることで、作者は自分自身を激励したのである。『新日本大歳時記・夏』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


June 0262001

 どくだみの花いきいきと風雨かな

                           大野林火

が家の近所には「どくだみ」が多い。あちこちに、群がって自生している。このあたりは古い地名では「品川上水」と言い、清水を通す大きな溝が掘られていて、全体的に湿地であったせいだろう。「どくだみ」は陰湿の地を好み、しかも日陰を好む。梅雨期を象徴するような花だ。川端茅舎に「どくだみや真昼の闇に白十字」の一句があるように、この花と暗さとは切っても切れない関係にある。その上にまた特異な臭気を放つときているから、たいていの人からは嫌われている。そのことを当人たち(!?)も自覚しているかのように、ひっそりと肩寄せ合って地味に生きている。その嫌われ者が、折からの「風雨」のなかで「いきいきと」していると言うのだ。物みな吹き降りの雨に煙ってしょんぼりしているなかで、「白十字」たちのみが「いきいき」と揺れている姿に、作者は感動を覚えた。雨の日の外出を鬱陶しく思っている心に、元気を与えられたのである。「どくだみ」は、十の薬効を持つと言われたことから「十薬(じゅうやく)」とも賞されてきた。「十薬の芯高くわが荒野なり」(飯島晴子)。ただし、正確にはこの黄色い穂状の「芯」の部分が花で、「白十字」は花弁ではなく苞(ほう)なのだそうだ。『俳句の花・下巻』(1997・創元社)所載。(清水哲男)


August 2182001

 野分きし翳をうしろに夜の客

                           大野林火

の草を吹き分ける風だから「野分(のわき)」。古くは台風とは違って荒い風が主体とされたけれど、現代では秋台風のことも含めて詠まれているようだ。この句も、そうだと思う。台風が接近中にもかかわらず、律儀にも約束通りに訪ねてきてくれた「夜の客」。招き入れるために玄関を開けると、客の「うしろ」には、すでに台風の近づいてきた「翳(かげ)」がはっきりと感じ取れる。風も雨も、だんだん激しくなってきた。よくぞ、こんな夜に訪ねてくださった。こういうときには、普段の訪問客よりもよほど親密度が増すのが人情で、作者は気象の変化を気にしながらも、大いに歓待したにちがいない。句とは何の関係もないが、昔の編集者の暗黙のハウツーの一つに、なかなか書いてくれない執筆者宅は、荒天を選んで訪ねよというのがあった。手の込んだ泣き落とし戦術であるが、先輩編集者は実にこまめに嵐だとか大雪の中を歩き回っていたことを思い出す。私にはそんな根性はさらさらないので、オール・パス。ついでに、出勤すらパスすることも再三だった。さて、閑話休題。大型で強い台風11号が近寄ってきた。東京も変な空模様。気象情報で出る「警報」は、生命に関わる可能性が高いという警告を含んでいる。通過地域にお住まいの諸兄姉には、今日だけはできるかぎりオール・パスで過ごしていただきたい。どんな被害も、これっぽっちも出ませんように……。『大歳時記・第二巻』(集英社・1989)所載。(清水哲男)


January 2712002

 切干大根ちりちりちぢむ九十九里

                           大野林火

語は「切干(きりぼし)」で冬。一般的な切干は、大根を細かく刻んで乾燥させたものを言う。サツマイモのもある。寒風にさらして、天日で干す。「九十九里」浜は千葉県中東部に位置し、太平洋に面する長大な砂浜海岸。北は飯岡町の刑部岬から南は岬町の太東崎に至る長さ約60キロの弧状の砂浜だ。九十九里にはとうてい及ばない距離なのだけれど、実際に行ってみると、命名者の思い入れは納得できる。源頼朝が六町を一里として矢をさしていき、九十九里あったところから命名されたという説もあるそうだ。掲句の面白さの一つは、この見渡すかぎりの砂浜に、まことに小さく刻まれた大根が干されてあるという対比の妙である。それも、どんどん乾いて小さくなっていくのだから、なおさらに面白い。もう一つは「ちりちりちぢむ」の「ち」音の重ね具合だ。あくまでも伸びやかな雰囲気の砂浜に比して、身を縮めていく大根の様子を形容するのに、なるほど「ちりちり」とはよく言い当てている。このときに作者もまた、晴天ゆえの寒風に身を縮めていたに違いない。妙なことを言うようだが、多く「ち」音の言葉には、どこか小さいものを目指すようなニュアンスがある。私は別に、英語の「chilly」もふと思ったが、そこまではどうかしらん。切干大根は、油揚げと煮たのが美味い。おふくろの味ってヤツですね。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)などに所載。(清水哲男)


April 1442002

 打興じ田楽食ふや明日別る

                           大野林火

語は「田楽(でんがく)」で春。豆腐を竹の平串に刺し、あぶって水気をとってから木の芽味噌をつけ、再び火にあぶって作る。野趣があり、いかにも春らしい食べ物だ。気のおけない友人といつものように酒を飲み、「打興じ」るままに旬の「田楽」でも食おうかということになり、楽しさがなお高調してきた。と、そのときにすっと胸をよぎった「明日別る」。読み下してきて、ここで読者はぎくりとする。別れの宴だったのかと……。こういうときには、人はお互いにつとめて明るくふるまい、明るくふるまっているうちに、いつしか「明日別る」ことも忘れてしまい、いつもと同じ時間を過ごしているような気持ちになる。が、楽しければ楽しいほどに、何かちょっとしたきっかけから、実は違うのだという動かしがたい現実を思い出さされたときは、余計に辛くなる。その意味で、句の「田楽」は、二人の交遊録に欠かせない食べ物なのかもしれないと思った。木の芽味噌の山椒の味と香りが、哀しくもほろ苦く二人の別れの時を告げたのだ。ご存知かとも思うが、ついでに「田楽」の由来を付記しておく。「田植の田楽舞に、横木をつけた長い棒の上で演ずる鷺足(さぎあし)という芸がある。足の先から細い棒が出て、腰から下は白色、上衣は色変わりという取り合わせが一見、白い豆腐に変わりみそを塗った豆腐料理に感じが似ているので、この名があるという。江戸後期の川柳に『田楽は昔は目で見、今は食い』と、ある。(C)小学館」。ちなみに、冬の「おでん」は「お田楽」の呼称から「楽」が省略された田楽の応用料理だそうである。江戸期の豆腐料理の本を見ると、実にバリエーションが豊富だ。いまどきでは「豆腐ステーキ」なんてものまである。『俳諧歳時記・春』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


January 0912003

 本買へば表紙が匂ふ雪の暮

                           大野林火

火、若き日の一句。本好きの人には、解説はいらないだろう。以前から欲しいと思っていた本を、ようやく買うことができた嬉しさは、格別だ。「表紙」をさするようにして店を出ると、外は小雪のちらつく夕暮れである。いま買ったばかりの本の表紙から、新しいインクの香りがほのかにたちのぼって、また嬉しさが込み上げてくる。ちらつく雪に、ひそやかに良い香りが滲んでいくような幸福感。この抒情は、若者のものだ。掲句に接して、私も本が好きでたまらなかった高校大学時代のことを思い出した。あの頃は、本を買うのにも一大決心が必要だった。欲しい本は、たいていが高価だったので、そう簡単には手に入らない。わずかな小遣いをやりくりして、買った。やりくりしている間に、目的の本が売れてしまうのではないかと心配で、毎日書店の棚を確かめに通ったものだ。おかげで、出入りした本屋の棚の品揃えは、諳(そら)んじてしまっていた。ついでに思い出したのは、生まれてはじめて求めた単行本のことだ。忘れもしない、田舎にいた小学校六年生のときである。貧乏だったので、修学旅行には行かせてもらえなかった。が、父はさすがに哀れと思ったのだろう。そのかわりに、好きな本を一冊買ってやるからと、交換条件を出してくれたのだ。で、その日から、新聞一面下の八つ割り広告を舐めるように調べ上げ(なにしろ、村には本屋がなかったので)、絞りに絞った単行本を、東京の出版社まで郵便振替で注文してもらった。修学旅行もとっくに終わってしまったころに、ようやく東京から分厚い本が届いた。私はその分厚さにも感動して、何日かは抱いて寝た。どういう本だったか。それは単なる、教科書の問題の答えが全部書いてある「アンチョコ」でしかなかった。でも、高校のころまでは大事にしていたのだが、何度目かの引っ越しで紛れてしまった。いまでも、届いたときのあの本の「表紙」の匂いや手触りは、鮮かによみがえってくる。『海門』(1939)所収。(清水哲男)


February 0222003

 白き巨船きたれり春も遠からず

                           大野林火

語は「春」。……と、うっかり書きそうになった。試験問題に出したら、間違う生徒がかなりいそうだな。正解は「春も遠からず(春近し・春隣)」で、冬である。林火は横浜に生まれ育った人だから、こうした情景には親しかった。大きくて白い、たぶん外国船籍の客船が、ゆったりと入港してくる。その「白き巨船」が、まるで春の使者のようだと言っている。むろん、船と季節との直接的な因果関係は何もないのだけれど、このように詠まれてみると、なるほど「春も遠からず」と思えてくるから面白い。私は山育ちだから、船が入港してくる様子などは、ほとんど知らない。知らなくても、しかし掲句には説得される。何の違和感も覚えない。何故なのだろうか。たぶん、それは「白き巨船」の「白」という色彩のためだろうと思う。これが、たとえば「赤」だったり「黄」だったり、その他の色だったりすると、なかなか素直にはうなずけそうもない気がする。多くの色のなかで、白色が最も光りを感じさせる。すなわち「巨船」はこのときに、大きな光りのかたまりなのである。そしてまた、来る春も光りのかたまりなのだから、ここで両者の因果関係が成立するというわけだ。ま、この句を、こんなふうなへ理屈を言い立てて観賞するのはヤボというものだろう。が、読後、私のなかで起きた「光りのかたまり」の美しいイメージのハレーション効果を忘れないために、ここに置いておこうと思ったのでした。『海門』(1939)所収。(清水哲男)


May 2152003

 とほるときこどものをりて薔薇の門

                           大野林火

季咲きの「薔薇(ばら)」もあるが、俳句では一応夏の花に分類している。我が家の近所に薔薇のアーチをかけた門のあるお宅があり、今を盛りと咲いていて見事なものだ。よほど薔薇が好きだとみえて、垣根にもたくさん咲かせている。ときおり前を通るたびに、どんな人が住んでいるのかとちらりとうかがうのだが、その家の人を見かけたことがない。いつも、ひっそりとしている。そう言えば、一般的に薔薇の門のある家というのはしいんとしている印象が強く、邸内から陽気な人声や物音はまず聞こえてきたためしがない。作者にもそんな先入観があって、ためらいがちに門を通ったのだろう。と、門の奥のところに「こども」がいた。人家だから誰がいても当たり前なのだが、いきなりの「こども」の出現に意表を突かれたのだ。なんとなく大人しか住んでいない感じを持っていたから、「えっ」と思うと同時に、にわかに緊張感がほぐれていく自分を詠んでいる。今日見られるような西洋薔薇の栽培がはじまったのは、江戸後期から明治の初期と言われており、おそらくは相当に高価だったろうから、昭和も戦後しばらくまでは富の象徴のような花だったと言ってよいだろう。その意味でも、庶民に似合う花じゃなかった。ましてや、子供には似合わない。したがって、掲句の薔薇とこどもの取り合わせは、実景でありながら実景を越えて、浅からぬ印象を読者に植え付けることになった。『新改訂版俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)などに所載。(清水哲男)


October 08102003

 裏山に椎拾ふにも病女飾る

                           大野林火

語は「椎(の実)」で秋。寝たり起きたりの「病女」は、妻ないしは母だろう。今日はよほど気分がよいらしく、裏山に椎の実を拾いにいくと言う。こんなときに、男だったら髭も剃らずに無造作な格好で出かけてしまうところだが、女性は違う。鏡に向かって、念入りに「飾」っている。誰かに会う気遣いもほとんどないのに、しかも短時間で椎の実をいくつか拾ってくるだけなのに……。女性のたしなみというのか、身を飾ることへの執着というのか、作者はその思いの強さに感嘆しているのだ。弱々しい病気の女性と地味な椎の実との取り合わせが、いっそう「飾る」という行為に精彩を与えている。子供のころ、近所に椎の大木があったので、通りがかりによく拾って食べたものだった。物の本には、栗についで美味と書いてあったりするけれど、そんなに美味じゃなかったような記憶がある。当時見た映画に『椎の実学園』というのがあって、肢体不自由児を持つ父親が教員の職を捨て、そうした子供たちだけを集める施設を作り、みんなで励ましあいながら暮らすという話だった。椎の実が熟するには二年もかかるというから、学園名はそのことに由来しているのかもしれない。主題歌があり、歌詞はおぼろげながらメロディはきちんと覚えている。♪ぼくらは椎の実 まあるい椎の実、お池に落ちて遊ぼうよ……と、そんな歌詞だった。でも、映画を見ながら、私は「まあるい椎の実」に引っ掛かった。嘘だと思った。私が拾っていた椎の実に丸いものはなく、いずれもが扁平な形をしていたからである。映画だから嘘もありかな。長い間そう思っていたのだけれど、実は椎の木には二種類あることを、大人になってから知ることになる。私が拾っていた実は「スダジイ」の実であり、映画のそれは「ツブラジイ」の実なのであった。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


March 0932007

 城ある町亡き友の町水草生ふ

                           大野林火

ある町は日本の町の代名詞。小さな出城まで入れると日本中城ある町、または城ありし町だ。城があれば堀があり、春になると岸辺に水草(みぐさ)が繁茂し、水面にも浮いている。生活があればそこに友も出来る。どこに住む誰にでもある風景と思い出がこの句には詰まっている。鳥取市と米子市に八年ずつ住んだ。鳥取市は三十二万五千石。市内の真ん中に城山である久松山(きゅうしょうざん)がどっしりと坐っている。備前岡山からお国替えになった池田氏が城主で、池田さんが岡山から連れてきた和菓子屋が母の実家だった。五、六歳の頃から、お堀に毎日通って、タモで泥を掬ってヤゴを捕った。胸まで泥に浸かって捕るものだから、危険だと何度叱られたかわからない。小学校三年生のときそこで初めてクチボソを釣った。生まれて初めての釣果であるクチボソの顔をまだ覚えている。中学と高校は米子。米子には鳥取の支城の跡があり、城址公園で同級生と初めてのデートをした。原洋子さん可愛かったなあ。その後原さんは歯科医になったらしいが、早世されたと聞いた。僕のお堀通いを叱責した父も母も今は亡く、和菓子屋を継いだ叔父も叔母も近年他界した。茫々たる故郷の思い出の中に城山が今も屹立している。平畑静塔『戦後秀句2』(1963・春秋社)所載。(今井 聖)


November 01112009

 月夜つづき向きあふ坂の相睦む

                           大野林火

を書こうとするときには、最初から遠くを見るのではなく、できるだけ近くの、小さなものから書いてゆこうと心がけています。細かいものを、正確に文字にうつすのが創作の間違いのない道筋であると、いつの頃からか確信を持ってきました。抽象的な概念を、大上段に振り回して事の真理を作品化してみようなどという行為が、少なくともわたしには、手にあまるものであると、経験から学んできたからです。だからなのでしょうか。大きな世界を、しっかりと描ききった作品を見ると、うらやましくもなり、それだけで深い感銘を受けてしまいます。今日の句も、坂が向き合う姿をダイナミックに描いて、わたしたちの前に示してくれています。むしろ俳句という、これだけ小さな世界だからこそ、大きなものを描くことに適しているのかもしれません。穏やかな秋の夜に、小さな商店街の並ぶ一本の谷を挟んで、二つの坂道が両側へ上っています。「相睦む」の一語が、読者へやさしく傾斜してくれています。『日本名句集成』(1992・學燈社)所載。(松下育男)


August 2682011

 河港月夜白きのれんにめしの二字

                           大野林火

港と月夜はすこし間を置いて読むのではなく、かこうづきよと一気に読むのだろう。そう考えると河港月夜というのは一個の名詞。作者の造語ということになる。枯木星というのは確か誓子の造語、ガソリンガールというのは風生だったか。目にしてみれば極めて自然に思える言葉も作者のオリジナルな工夫がほどこされているのだ。こんなところにも独自性への真摯な希求がある。こんな小さな詩形のそのまたどこか一部に、かけがえのない「私」が存在するようにという作者の願いが見えてくる。朝日文庫『高濱年尾・大野林火集』(1985)所収。(今井 聖)


October 20102012

 カステラが胃に落ちてゆく昼の秋

                           大野林火

日句会で、昼の秋、という言葉を初めて見た。作者は二十代後半、ラーメンを食べる句だったが、秋という言葉の持つもの淋しさとも爽やかさとも違う、不思議な明るさが印象的だった。掲出句は昭和九年、作者三十歳の作。八十年近い時を経て、同年代の青年が健やかに食べている。秋晴れの真昼間、空が青くて確かにお腹も空きそう、カステラがまた昭和だなあ、などとのんきに思いながら、昭和九年がどんな年だったのかと見ると、不況の中、東北地方大冷害、凶作、室戸台風など災害の多い年だったとある。だとすれば健やかより切実、一切れのふわふわ甘い卵色のカステラが、その日初めて口にした食べ物だったかもしれない。だからこその、胃に落ちてゆく、なのか。なるほどと思いながら、昼の秋、の明るさがどこかしみじみとして来るのだった。『海門』(1939)所収。(今井肖子)


November 22112014

 暮るるよりさきにともれり枯木の町

                           大野林火

木は、すっかり葉が落ちてまるで枯れてしまったように見える木のことで冬木に比べ生命力が感じられないというが、枯木の町、には風が吹き日があたり人の暮らしがある。まだ空に明るさが残っているうちからぽつりぽつりとともる窓明り。ともれり、が読み手の中で灯る時、冬の情感が街を包んでゆく。この句は昭和二十六年の作だが同年、師であった臼田亜浪が亡くなっている。その追悼句四句の中に〈火鉢の手皆かなしみて来し手なり〉があるが、このかなしみもまた静かにそして確かに、悲しみとなり哀しみとなって作者のみならず読み手の中に広がってゆくだろう。『青水輪』(1953)所収。(今井肖子)


July 1172015

 花柘榴雨きらきらと地を濡らさず

                           大野林火

榴の花の赤は他のどの花にもない不思議な色だ。近所に、さほど大きくない柘榴の木が門のすぐ脇に植えられている家がある。今年も筒状の小さい花が、ことさら主張することなくそちこち向きつつ葉陰に咲いていたが、自ずと光って通りがかりの人の目を引いていた。その光る赤を表現したい、と思ったことは何度もあるのだが今ひとつもやもやしたまま過ごしていた時この句を知った。細かい雨の中、柘榴の花が咲いている。きらきら、は柘榴の花そのものが放つ光の色であり、雨は光を溜めて静かに花を包んでいる。その抒情を、地を濡らさず、という言い切った表現が際立たせており、作者の深く観る力に感じ入る。『季寄せ 草木花 夏』(1981・朝日新聞社)所載。(今井肖子)




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