室生犀星の句

April 1841997

 靴みがきうららかに眠りゐたりけり

                           室生犀星

ってみるとすぐに分かるが、「うららか」や「のどか」といった季語を使うのはとても難しい。季語自体が完璧な世界を持っているからだ。それで説明がすべてすんでしまっているからである。だから、たいていの場合は、屋上屋を重ねたようなあざとい句か月並みなそれに堕してしまう。その点、この句は自然とは無縁の都会に「うららか」を発見していて、まずは及第点か。おお、懐かしの「東京シューシャイン・ボーイ」よ、いま何処。彼らはみな、とっくに還暦は越えている。(清水哲男)


November 14111997

 小春日のをんなのすはる堤かな

                           室生犀星

全体が春の日のようにまろやか。女も土手も、ぼおっと霞んでいるかのようだ。平仮名の使い方の巧みさと二つ重ねた「の」の効果である。とくに旧仮名の「をんな」が利いている。新仮名の「おんな」では、軽すぎてこうはいかない。ところで、八木忠栄の個人誌「いちばん寒い場所」(24号・1997年11月)の表紙に、犀星のこんな文章が引用されていた。「『一つ俳句でもつくって見るかな』といふ軽快な戯談はもはや通らないのである。『俳句は作るほど難しくなる』といふ嘆息がつい口をついて出てくるやうになると、もう俳句道に明確にはいり込んでゐるのだ。どうか皆さん、『俳句でも一つ作って見るか』などといふ戯談は仰有らないやうに、そして老人文学などと簡単に片づけてくださらないやうに」。「俳句道」には恐れ入るが、言いたいことはよくわかる。上掲の句は『遠野集』所載。(清水哲男)


February 0921998

 うすぐもり都のすみれ咲きにけり

                           室生犀星

見事ッ。そんな声をかけたくなるほどに美しい句だ。前書に「澄江堂に」とあるから、芥川龍之介に宛てたものである。田端付近の庭園か土手で、咲きはじめの菫をみつけたのだろう。いつもの年よりよほど早咲きなので、早速龍之介に一筆書いて知らせたというわけだ。意外に早い菫の開花に、作者はもちろん興奮を覚えているのだが、そこはそれ抒情詩の達人犀星だけあって、巧みにおのれの興奮ぶりを隠している。彼の俳句は余技ではあるけれど、興奮をそのまま伝えるのが野暮なことは百も承知している。実景ではあろうが「うすぐもり」と出たのは、そのためである。これで作者は粋になった。つづいて「都のすみれ」で、花自体をも粋に演出している。ちっぽけな花をクローズアップしてみせるという粋。さりげないようでいて、この句ではそうした作者の工夫が絶妙な隠し味になっている。受け取った芥川は、すぐに隠し味がわかっただろう。にやり、としたかもしれない。独自の抒情を張って生きるのは、なかなか大変なのである。(清水哲男)


February 1021999

 ごみ箱のわきに炭切る余寒かな

                           室生犀星

寒(よかん)は、寒が明けてからの寒さを言う。したがって、春の季語。「ごみ箱」には、若干の解説が必要だ。戦前の東京の住宅地にはどこにでもあったものだが、いまでは影も形もなくなっている。外見的には真っ黒な箱だ。蠅が黒色を嫌うという理由から、コールタールを塗った長方形の蓋つきのごみ箱が各家の門口に置かれていた。たまったゴミは、定期的にチリンチリンと鳴る鈴をつけた役所の車が回収してまわった。当時は紙類などの燃えるゴミは風呂たきに使ったから、「燃えないゴミ専用の箱」だったとも言える。句の情景については、作者の娘である室生朝子の簡潔な文章(『父犀星の俳景』所載)があるので引いておく。「炭屋の大きな体格の血色のよいおにいちゃんが、いつも自転車で炭を運んできていたが、ごみ箱のそばに菰を敷いて、桜炭を同じ寸法に切るのである。(中略)煙草ひと箱ほどの寸法に目の細かい鋸をいれて三分の一ほど切ると、おにいちゃんは炭を持ってぽんと叩く。桜炭は鋸の目がはいったところから、ぽんと折れる。たちまち形のよい同じ大きさの桜炭の山ができる。その頃になると、書斎の大きな炭取りが菰の隅におかれる。おにいちゃんは山のように炭取りにつみ上げたあと、残りを炭俵の中につめこむのである。炭の細かい粉が舞う。……」。『犀星発句集』(1943)所収。(清水哲男)


March 1431999

 今宵しかない酒あはれ冴え返る

                           室生犀星

の季語「冴返る」は、暖かくなりはじめた時期に、また寒さが戻ってくる現象を言う。万象が冴え返る感じがする。句は、酒飲みに共通する「あはれ」だ。この酒を飲んでしまうと、家内にはもう一滴もなくなる。つい、買い置きをするのを忘れてしまった。まことに心細い気持ちで、飲みはじめる。急に冷え込んできた夜だけに、心細さもひとしお。その気持ちが「あはれ」なのである。手前勝手といえばそれまでだが、この無邪気な意地汚さから、酒飲みはついに離れられない。ちなみに、犀星の愛した酒は金沢の「福正宗」だった。作者の晩酌の様子については、娘・朝子の文章がある。「犀星は家族とは別に、小さい朱塗りのお膳の前に正座して、盃をかたむけていた。私達はそばの四角いちゃぶ台にそれぞれが座る。母はこまめで料理が上手な人であったから、犀星のお膳には酒の肴の小皿がいくつも並び、赤い袴には備前焼の徳利があった。犀星はあまり喋らずに、毎夜きまって二本の徳利をあけていた。そして夕食にはご飯はいっさい食べなかった」(『父 犀星の俳景』1992)。この晩酌が終わるころになると、きまって近所に住む詩人の竹村俊郎が誘いに来て、二人はいそいそと飲みに出かけたものだという。(清水哲男)


November 18111999

 焼芋の固きをつつく火箸かな

                           室生犀星

芋といっても、いろいろな焼き方がある。焚き火で焼いたり、網やフライパンで焼いたり、石焼芋もあるし、近年では電子レンジでチンしたりもする。もっとも、電子レンジで調理する場合は「焼く」という言葉は不適当だ。といって「蒸かす」も適当でないし、やはり「チンする」とでも言うしかないか(笑)。句の場合は、囲炉裏で焼いている。犀星の時代にはごく普通の焼き方であり、焼け具合を見るために、火箸でつついている図だ。短気だったのだろう。焼けるのが待ち切れなくて「固きをつつ」いているわけだが、一人で焼いているのならばともかく、こうした振る舞いは周囲の人に嫌われたと思う。芋だけではなく、ついでに囲炉裏の火までつつきまわす人もおり、貧乏性の烙印を捺されたりもした。もちろん犀星は自分の行為に風流を感じて作ったのだろうが、あまり褒められた姿ではない。……と、百姓の子としては言っておきたくなる。囲炉裏での火箸の扱いは、ゆったりとした心持ちのなかで、はじめて(風流)味が出てくる。犀星は百姓のプロじゃなかったから仕方がないけれど、火箸の上げ下ろしは、あれでなかなか難しいのである。そう簡単に、カッコよくはできないものなのだ。(清水哲男)


April 0742002

 あんずの花かげに君も跼むか

                           室生犀星

語は「あんず(杏)の花」で春。梅の花に似ており、梅のあとに咲く。主産地が東北甲信越地方なので、雪国に春を告げる花の一つだ。金沢出身の犀星は、ことにこの花を愛した。「あんずよ/花着(つ)け/地ぞ早やに輝け/あんずよ花着け/あんずよ燃えよ/ああ あんずよ花着け」(「小景異情」その六)。掲句は、瀧井孝作の結婚に際して書き送った祝句。俳句というよりもすっかり一行詩の趣だけれど、日記に「瀧井君に送りし俳句一つ、結婚せるごとし」とある。後に「邪道」と退けてはいるが、碧梧桐の自由律俳句に共感を覚えていた頃の、当人にしてみればれっきとした「俳句」なのである。瀧井孝作もまた、碧梧桐の濃い影響下にあった。さて、掲句。「あんずの花」で、新妻の清楚な美しさを言っている。その「花かげ」に、ようやく「君も」まるで幼い人のように「跼(かが)む」ことができるようになったんだね、よかったね……。犀星も孝作も、幼いころから苦労の連続する境遇にあった。したがって作者は、妻という存在をどこか母親のようにも感じるところがあり、それを率直にいま「君」に伝える。いまの「君」ならば、きっと同じ気持ちになっていることだろう。おめでとう。そういう句意だろう。日記の「結婚せるごとし」からすれば、二人はさして親密な関係になかったように思われるかもしれないが、こういうことには世間的な事情がいろいろと絡みつく。風の便りに結婚と聞いて、いちはやく句を送ったところに、犀星の溢れる友情が示されている。句の中身もさることながら、私には二人の友情の厚さが強く響いてきて、余計にほろりとさせられた。北国のみなさん、杏の花は咲いてますか。『室生犀星全集』(新潮社)などに所収。(清水哲男)


October 06102003

 栗ひらふひとの声ある草かくれ

                           室生犀星

室義弘『文人俳句の世界』を、ときどき拾い読みする。犀星の他には、久米三汀(正雄)や瀧井孝作、萩原朔太郎などの句が扱われている。掲句も、この本で知った。文人俳句という区分けにはさしたる意味を見出し難いが、強いて意味があるとすれば、彼らが趣味や余技として句を作ったというあたりか。だから、専門俳人とは違い楽に気ままに詠んでいる。しゃかりきになって句をテキストだけで自立させようなどとは、ちっとも思っていない。そこが良い。ほっとさせられる。しかし、これらも昔からのれっきとした俳句の詠み方なのだ。俳句には、こうした息抜きの効用もある。最近の俳句雑誌に載るような句は、この一面をおろそかにしているような気がしてならない。息苦しいかぎり。芭蕉などもよくそうしたように、彼ら文人もまた手紙にちょこっと書き添えたりした。そうした極めて個人的な挨拶句が多いのも、文人俳句の特長だろう。同書によると、この句は、軽井沢の葛巻義敏(芥川龍之介の甥)から栗を送られたときの礼状にある。「栗たくさん有難う。小さいのは軽井沢、大きいのはどこかの遠い山のものならんと思ひます」などとあって、この句が添えられている。そして書簡には、句のあとに「あぶないわ。」とひとこと。受けて、小室は次のように書く。「この添え書は絶妙。これによって、足もとの草に散らばった毬やそれを避けて拾う二、三人の人物の構図がほうふつしてくる。小説風に構成された女人抒情の一句と言ってよい」。つまり、掲句は「あぶないわ。」のひとことを含めて完結する句というわけだろう。五七五で無理やりにでも完結させようとする現代句は、もっとこの楽な姿勢に学んだほうがよろしい。後書きでも前書きでもくっつけたほうが効果が上がると思ったら、どんどんそうすべきではあるまいか。ただし、「○○にて」なんてのでは駄目だ。これくらいに、洒落てなければ。(清水哲男)


December 10122004

 木枯やいのちもくそと思へども

                           室生犀星

語は「木枯」で冬。67歳(1956)の日記に「ふと一句」として、この句が書かれている。知人にも手紙で書き送っているが、もとより発表を意図したものではない。それだけに、かえって犀星の心境が赤裸々に伝わってくる。ヤケのやんぱち。どうにでもなりやがれ。とは思うものの……。と、心が揺れているのは、体調がすこぶる悪く、医者通いの日々がつづいていたからだ。何種類かの薬を常飲し、注射を打ち、血圧は午前と午後に二度計っている。このころの犀星は創作意欲にみなぎっていたと思われるが、如何せん、身体がついてきてくれない。そのことからくる焦りが、「ふと」掲句を吐かせたのだった。しかし、そうした肉体的な衰微と闘いつつ、この年に『舌を噛み切った女』、翌年には『杏っ子』、そのまた翌年には『わが愛する詩人の伝記』と、矢継ぎ早に秀作を発表しつづけた。当時リアルタイムでこれらを読んでいた私には、彼が人生的幸福の絶頂にあると感じていたけれど、しかし人のありようとはわからないものだ。いかに世俗的な成功をおさめようとも、そんなものが何になる。肉体の衰えを抱いていた犀星は、きっと孤独のうちに悶々としていたにちがいない。元気がなにより。これは凡人の気休めなどではなく、永遠の真実だと、最近の私はつくづく思う。(清水哲男)


June 2262005

 犀星の句の青梅に及ばねど

                           榎本好宏

語は「青梅(あおうめ)」で夏。「犀星の句の青梅」とは、おそらく有名な「青梅の尻うつくしくそろひけり」のそれだろう。いかにも女人礼賛者の室生犀星らしく、青梅の「尻」にも女性を感じて、ひそやかなエロティシズムを楽しんでいる。もっとも、この場合の女性は、童女と表現してもよいような小さな女の子だと思う。掲句の作者は、犀星句の青梅には及ばないにしてもと謙遜はしているが、かなりの出来映えに満足している様子だ。よく晴れた日、青葉の茂みを透かして見える青梅の珠はことのほか美しく、作者はうっとりと見惚れている。見惚れながら、犀星の青梅もかくやと思ったのだろう。が、そこをあえて一歩しりぞいて「及ばねど」と詠み、その謙遜がつまりは自賛につながるところが日本人の美学というものである。しかし日本人もだいぶ変わってきたから、この句を書いてある字義通りに、額面通りに受け取る人のほうが多いかもしれない。でもそう読んでしまうと、この句の面白さは霧散してしまうことになる。どこが面白いのかが、わからなくなってしまう。やはりあくまでも、心底での作者の気持ちは犀星の青梅と張り合っているのである。実は、我が家にも小さな梅の木があっていま実をつけているが、とても尻をそろえるほどに数はならないので、こちらは字義通りに及ばない。だから、無念にもこういう句は詠めない宿命にある(笑)。俳誌「件」(第四号・2005年6月)所載。(清水哲男)


May 2452006

 夏の日の匹婦の腹にうまれけり

                           室生犀星

語は「夏の日」。「匹婦(ひっぷ)」とは、いやしい女の意だ。作者は自身で何度も書いているが、父の正妻ではない女性の子であった。いま私は、犀星の最後の作品『われはうたへどもやぶれかぶれ』を読んでいる。年老いて身動きもままならぬ自分を、徹底的に突き放して書いた、すさまじい私小説だ。掲句もそうであるように、作家としての犀星の自己暴露は、終生首尾一貫していた。生まれてすぐに生家の体面上、他家にやられた作者にはほとんど母親の記憶がない。わずかな記憶は、「殆醜い顔に近い母親だった」ことくらいだ(『紙碑』)。この句に触れて、娘の室生朝子が書いている。「犀星は膨大な作品を残したが、そのなかで数多くの女性を描いた。(中略)ひとつの作品のなかで生きる女は、犀星の心の奥に生きている、形とはならない生母像と重なり合いながら、筆は進んでいく。犀星はどのように難しいプロットを小説のために組み立てるよりは、好きなように女を書く楽しみのなかに、苦しみと哀しみが重なり合っていたのではないかと思う。/この一句は犀星の文学を、あまりにもよく表している、すさまじい俳句である」。犀星は幻の実母の死を、父親の先妻に告げられて知った。彼女は、こう言ったそうだ。「あれは食う物なしに死んだのです」。つまり、餓死ということなのか。それにしても、いかに憎い相手だったとしても、故人を指して「あれ」とはまた、すさまじい言い方だ。犀星という作家は、そんなすさまじい体験を逆手に取って、珠玉のような作品をいくつも書いたのだった。まことに、すさまじい精神力である。『鑑賞現代俳句全集・第十二巻』(1981)所載。(清水哲男)


November 08112006

 据ゑ風呂に犀星のゐる夜寒かな

                           芥川龍之介

書で「すえふろ」は「桶の下部に竈を据え付けた風呂」と説明されている。昔、家庭の風呂はたいていそういう構造だった。子供の頃、わが家では「せえふろ」と呼んでいた。香り高い檜桶の「せえふろ」が懐かしい。犀星はもちろん室生犀星。龍之介よりも3歳年上。龍之介には俳人顔負けの秀句がじつに多いが、私はこの句がいちばん好きだ。俳句も多い犀星は、芥川氏を知って「発句道に打込むことの真実を感じた」と自著『魚眠洞発句集』に書いている。ゴツゴツと骨張った表情の犀星が、龍之介の家に遊びに来て風呂に浸かっているのか、自宅の風呂に浸かっている犀星を想像し、深夜の寒さをひしひしと実感しているのか。あるいは、旅先の宿で一緒に浸かっているのか(そんな二次的考察は研究者にまかせておこう)。風呂桶と犀星という取り合わせで、夜の寒さと静けさとがいっそう色濃く感じられる。熱い湯に犀星は瞑目しながら身を沈め、龍之介は細々と尖ったまま瞑想しているのだろうか。男同士の関係がベタつかず、さっぱりとして気持ちがいい。冴えわたっていながら、どこかしら滑稽味がにじみ出ている点も見逃せない。掲句は龍之介が自殺する三年前、大正十三年の作。犀星は龍之介の自殺直後の八月に、追悼句を「新竹のそよぎも聴きてねむりしか」と詠んだ。『芥川龍之介句集 我鬼全句』(1976)には1,014句がおさめられている。ふらんす堂『芥川龍之介句集』(1993)所収。(八木忠栄)


January 1012007

 新年の山重なりて雪ばかり

                           室生犀星

句が多い犀星の俳句のなかで、掲出句はむしろ月並句の部類に属すると言っていいだろう。句会ではおそらく高点は望めない。はや正月も10日、サラリといきたくてここに取りあげた。新年も今日あたりともなれば、街には本当の意味での“正月気分”などもはや残ってはいない。年末のクリスマス商戦同様に、躍起の商戦が勝手な“正月”を演出し、それをただ利用しているだけである。ニッポンもここまで来ました、犀星さん。世間はせわしない日常にどっぷりつかっていて、今頃「明けましておめでとうございます」などと挨拶しているのは、場ちがいに感じられる。生まれた金沢というふるさとにこだわった犀星にとって、「新年」と言えば「雪」だったにちがいない。彼には新年の山の雪を詠んだ句が目につく。「新年の山見て居れば雪ばかり」「元日や山明けかかる雪の中」等々。雪国生まれの私としても、今頃はまだのんびりとして、しばし掲出句の山並みの雪を眺めていたい気持ちである。ここで犀星の目に見えているのは、もちろん雪をかぶった山々ばかりだけれど、山一つ一つの重なりのはざまには、雪のなかに住む人たちの諸々の息づかい、並々ならぬ生活があり、一律ではないドラマも新しい年を呼吸しているだろう。白一色のなかで、人はさまざまな色どりをもった暮しを生きている。そこでは赤い血も流され、黒いこころも蠢いているだろう。そうしたことにも十分に思いを及ばせながら、あえて「雪ばかり」と結んでいる。作者はうっとりと、重なっている雪の山々を眺めているだけではない。山の重なりは雪景色に映し出された作者の内面、その重なりのようにも私には思われる。「犀星は俳句にはじまり俳句に終った人である」と句集のあとがきで室生朝子は書いている。『室生犀星句集・魚眠洞全句』(1979)所収。(八木忠栄)


February 2022008

 ひそと来て茶いれるひとも余寒かな

                           室生犀星

春を幾日か過ぎても、まだ寒い日はある。東京に雪が降ることも珍しくない。けれども、もう寒さはそうはつづかないし、外気にも日々どこかしら弛みが感じられて、春は日一日と濃くなってゆく。机に向かって仕事をしている人のところへ、家人が熱い茶をそっと運んできたのだろうか――と読んでもいいと思ったが、調べてみるとこの句は昭和九年の作で「七條の宿」と記されている。さらにつづく句が「祗園」と記されているところから、実際は京都の宿での作と考えられる。宿の女中さんが運んできてくれた茶であろう。ホッとした気持ちも読みとれる。一言「ありがとう」。茶は熱くとも、茶を入れてくれた人にもどこかしらまだ寒さの気配が、それとなく感じられる。その「ひと」に余寒を感受したところに、掲出句のポイントがある。「ひそと来て」というこまやかな表現に、ていねいな身のこなしまでもが見えてくるようである。それゆえかすかな寒さも、同時にそこにそっと寄り添っているようにも思われる。茶をいれるタイミングもきちんと心得られているのだろう。さりげない動きのなかに余寒をとらえることによって、破綻のない一句となった。犀星には「ひなどりの羽根ととのはぬ余寒かな」という一句もある。「ひそと来て」も「羽根ととのはぬ」も、その着眼が句の生命となっている。『室生犀星句集』(1977)所収。(八木忠栄)


May 0252008

 桃つぼむ幼稚園まで附きそひし

                           室生犀星

ぼむには窄む(すぼむ)という意味と、まったく逆の蕾をつけるという意味の二つがあるが、この句の場合は後者だろう。人はどこまで記憶を遡ることができるか。僕は四歳のときに幼稚園で石段から転げ落ちて頭に怪我をしたのがもっとも遠い記憶。両親は共稼ぎだったため、朝家から三百メートルほどのところにある幼稚園に一人で通わされた。協調性がなかった僕は幼稚園がいやでいやでたまらず母に抱きついては通園をしぶった。家を出たところで僕にしがみつかれた母は、しかたなく、通りすがりの女子高生に同行を頼んだ。僕はほとんど毎日見もしらぬ女子高生に手をひかれて幼稚園に到着した。犀星が付き添ったのは子どもか孫か。泣いてしがみつかれたためか、何かの用向きがあったか。あの犀星の異相とも言える風貌を思い浮かべると幼稚園までの風景が微笑ましい。折りしも春たけなわ。『新日本大歳時記』(2000・講談社)所載。(今井 聖)


April 2942009

 春徂くやまごつく旅の五六日

                           吉川英治

五の「春徂(ゆ)くや」は「春行くや」の意。「行く春」とともによく使われる季語で春の終わり。もう夏が近い。季節の変わり目だから、天候は不順でまだ安定していない。取材旅行の旅先であろうか。おそらくよく知らない土地だから、土地については詳しくない。それに加えて天候が不順ゆえに、いろいろとまごついてしまうことが多いのだろう。しかも一日や二日の旅ではないし、かといって長期滞在というわけでもないから、どこかしら中途半端である。主語が誰であるにせよ、ずばり「まごつく」という一語が効いている。同情したいところだが、滑稽な味わいも残していて、思わずほくそ笑んでしまう一句である。英治は取材のおりの旅行記などに俳句を書き残していた。「夏隣り古き三里の灸のあと」という句も、旅先での無聊の一句かと思われる。芭蕉の名句「行く春や鳥啼き魚の目は泪」はともかく、室生犀星の「行春や版木にのこる手毬唄」もよく知られた秀句である。英治といえば、無名時代(大正年間)に新作落語を七作書いていたことが、最近ニュースになった。そのうちの「弘法の灸」という噺が、十日ほど前に噺家によって初めて上演された。ぜひ聴いてみたいものである。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


September 0192010

 二百十日馬の鼻面吹かれけり

                           高田 保

日は二百十日。立春からかぞえて二百十日目にあたる。今夏は世界的に異常気象だったけれど、厄日とされてきたこの日、果たして二百十日の嵐は吹き荒れるのかどうか……。「二百十日」や「二百二十日」といった呼称は、近年あまり聞かれなくなった。かわって「エコ」や「温暖化」という言葉が、やたらに飛びかう時代になりにけり、である。猛暑のせいで、すでに今年の米の実りにも悪しき影響が出ている。さらに早稲はともかく、今の時季に花盛りをむかえる中稲(なかて)にとっては、台風などが大いに気に懸かるところである。ところで、馬の顔が長いということは今さら言うまでもない。長い顔の人のことを「馬づら」どころか、「馬が小田原提灯をくわえたような顔」というすさまじい言い方がある。馬の長い顔は俳句にも詠まれてきた。よく知られている室生犀星の傑作に「沓かけや秋日に伸びる馬の顔」がある。馬はおとなしい。その「どこ吹く風」といった長い鼻面が、二百十日の大風に吹かれているという滑稽。さすがの大風も、人や犬の鼻面に吹くよりは吹きがいがあろう、と冗談を言いたくもなる句ではないか。意外性の強い俳句というわけではないけれど、着眼がおもしろい。小説家・劇作家として活躍した保は、多くの俳句を残している。他に「広重の船にも秋はあるものぞ」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


April 2742011

 椎若葉楓若葉も故園かな

                           円地文子

や楓にかぎらず、すがすがしい若葉の季節である。季節が生まれかわり、自然だけでなく身のまわりのものすべてが息づく季節でもある。「故園」という呼び方は古いけれど、「故郷/ふるさと」を意味する。人工的な要素がまだ加わらないままの姿が残されているふるさと、というニュアンスが感じられる。破壊の手がまだ及んでいないふるさとで、椎や楓その他がいっせいに若葉を広げつつあったのだろう。この時季、いろいろな植物の若葉が詠まれる。季語には「山若葉」「谷若葉」「森若葉」など、場所をあらわす若葉もある。また若葉の頃の天候を「若葉晴れ」とも呼ぶそうだ。文子は東京生まれで、かつて「国語学者・上田万年の次女」という紹介のされ方をよくされた時代があった。けれども、今や上田万年も遠い存在になってしまったし、女流作家・円地文子を知らない人さえ少なくない。文子が残した俳句は少ないが、女流作家のなかでも、網野菊、中里恒子、森田たま、吉屋信子たちは多くの俳句を詠んだ。なかでも、信子は本格的に俳句を作り、「ホトトギス」にも加わったことがあった。文子には他に「のびたたぬ萩のトンネル潜りいづ」がある。室生犀星の「わらんべの洟もわかばを映しけり」は忘れがたく可愛い。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


June 1362012

 髪結ふやあやめ景色に向きながら

                           室生犀星

人で「あやめ」と「かきつばた」の違いがわからない人はいないだろう。わからない? 俳人たる資格はないと言っていいかも(当方などはあやしいのだが)。「あやめ」はやや乾燥した山野に生えて、花びらに網模様がある。「かきつばた」は湿地や池沼に自生して、花は濃紫である。まだ暑くはないさわやかな五〜六月頃、縁側か窓辺で女性がおっとり髪を結っているのだろう。あるいは結ってもらっているのかもしれない。前方にはあやめが群生していて、そこを吹きわたってくる風が心地よい。そう言えば、あやめの花の形は女性のある種の髪形のようにも見える。そんな意識も作者にはあったのではないかと推察される。昭和二十八年五月に、犀星は「髪を結ふ景色あやめに向きながら」と詠んだが、五日後に上掲のかたちに改めたという。なるほど「髪を結ふ景色」よりも「あやめ景色」のほうがあやめが強調され、句姿が大きく感じられないだろうか。犀星のあやめの句に「にさんにちむすめあづかりあやめ咲く」もある。『室生犀星句集』(1979)所収。(八木忠栄)


October 17102012

 秋水の動くともなく動きけり

                           伊志井寛

ややかさを感じさせる「秋水」は、流れている川や湖の水とはかぎらない。井戸の水や洗面器に汲んだ水でもいいだろうが、秋の水ゆえに澄みきって、一段と透明に冷えてきている水である。名刀をたとえるのに「三尺の秋水」という言葉もあるようだ。掲句の「秋水」は「動くともなく」かすかに動いているのだから、川か池の水だろう。おそらく川の水が流れるともなく流れているさまを詠んだものだろう。「流れる」ではなく「動く」と詠んだところに、秋水をより生きたもののごとくとらえたかった作者の気持ちが感じられる。水は動きがないように見えてはいるけれど、秋の日ざしに浸るかのように、かすかにだが確実に流れている。それを見つめている作者の心にも、ゆったりした秋の時間が流れているようだ。せかせかしないで、秋は万事そうした気持ちでありたいものだと思うが、なかなか……。室生犀星の句に「秋水や蛇籠にふるふえびのひげ」がある。平井照敏編『新歳時記・秋』(1996)所収。(八木忠栄)


January 0812014

 信濃路の餅の大きさはかりけり

                           室生犀星

の昔、わが家で搗いた餅は硬くならないうちに、祖父がなれた手つきで切り餅にした。その切れ端をそのままナマで食べると、シコシコしておいしかった。大きさは市販の切り餅に比べるとスマートではなく、だいたい大きめだった。小学生のころ正月の雑煮餅は、自分の年の数だけ食べるよう母に言われたものである。八歳で八個、十二歳なら十二個ーー無茶な! 正月とはいえ、モノがなかった戦後の田舎のことだから、正月のおやつは餅とミカンくらいしかなかった。だから雑煮を無理やり年の数だけ食べて腹を一杯にするという、とんでもない正月を過ごしていた(昼飯抜き)。そのせいか今も餅は大好き。さて、犀星は信濃路で出された田舎の餅の大きさに驚いたのだろう。まさか物差しで大きさを実際に測ったわけではあるまいが、「都会の餅に比べて大きいなあ!」と驚いているのだ。昭和二十一年一月の作というから、戦時中に比べ食料事情が少し良くなってきた、そのことを餅の大きさで実感してホッとしているのだろう。同じ時に作った句に「切り餅の尾もなきつつみひらきゐる」がある。不思議な句である。『室生犀星句集・魚眠洞全句』(1977)所収。(八木忠栄)




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