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May 0351997

 憲法の日や雑草と山に居る

                           熊谷愛子

法が施行された五十年前に大人だった人々にとって、新憲法はまぶしいほどの衝撃をもたらしただろう。とくに、第9条は。「……国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」。文字通り塗炭の苦しみをなめさせられた庶民のひとりとして、作者は戦争のない世の中の幸福をしみじみと味わい、雑草さえもがいとしく感じられ、共に生きる心持ちになっている。風はそよ風。上天気。(清水哲男)


May 0351999

 憲法記念日何はあれけふうららなり

                           林 翔

の気分が、今日ではまずは一般的だろう。「憲法記念日」というよりも、ゴールデン・ウイークにリンクした休日としての位置づけだ。かまびすしい憲法論議などはさておいて、「何は(とも)あれ」上天気であることに気分が傾いている。正直な句だ。昔から探してはいるのだが、憲法記念日の句に、これというものが見当たらない。新憲法が施行されたのは、戦後二年目(1947)の今日五月三日。画期的な戦争放棄の条文を持つ新しい憲法は、当時の多くの人々に歓迎された。たとえアメリカからのお仕着せ憲法ではあっても、「何はあれ」戦争との縁切り状は敗戦国民の気持ちと合致した。その喜びを詠んだ句がいくつかあってもよさそうなのに、なかなか見い出せないできた。なぜだろうか。急にできた祝日なので、季節感を伴うには歳月が必要だったからかもしれない。「憲法」という固いイメージが、俳句に溶け込めなかったのかもしれない。季語としては、字余りで長すぎることもあったろう。しかし、どこかの誰かが一句くらいは、当時の沸き立つような心の内を詠んでいるはずである。これからも、探しつづけたい。(清水哲男)


May 0352010

 手毬咲き山村憲法記念の日

                           水原秋桜子

ある山村を通りかかると、純白の大手毬、小手毬が春の日差しを浴びて美しく咲いている。あたりには人の気配もない。そんな時間の止まったような風景のなかで、作者は今日が憲法記念日であったことを想起している。いまは「全て世は事も無し」のように思えるこの山村にも、かつての戦争の爪痕は奥深く残っているのだろう。詠みぶりがさらりとしているだけに、かえってそうした作者の思いが鮮やかに伝わってくる。決して声高な反戦句ではないが、しかし内実は反戦の心に満ちていると読める。もう戦争は二度とごめんだ。敗戦後の日本人ならば誰しも持ったこの願いも、昨今では影が薄まってきた感があり、憲法九条の見直し論が大手を振ってまかり通るようにさえなってきた。直接の戦争体験を持つ人が少なくなってきたこともあるだろうが、一方では戦後世代の想像力の貧弱さも指摘できると思う。想像力の欠如と言っても、そんなに大仰な能力ではなくて、たとえば「命あっての物種」くらいのことにも、実感が届かない貧弱さが情けない。それだけ、それぞれの個としての存在感が持てなくなってしまったのか。現象に流されてゆくしか、生き方は無いのか。ならば、もはや詩歌の出番も無くなってしまっているのではないか。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)




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