謌千伐蜊遨コ縺ョ句

May 0451997

 煮蜆の一つ二つは口割らず

                           成田千空

間にも強情な奴はいるが、蜆(しじみ)にも、なかなかどうして頑迷な奴がいる。素直じゃない。可愛くない。とまあ、これはもちろん口を割らない蜆のせいではないとわかってはいるけれど、ついつい人間世界に擬してしまいたくなるのが、人情というものだろう。滑稽にして、俳味十分。成田千空は、かつて学生時代の私が投句していた頃の「萬緑」(中村草田男主宰)のエース級同人。現在の主宰者である。(清水哲男)


November 06111997

 鷹ゆけり風があふれて野積み藁

                           成田千空

のように街の中をかけずりまわっている生活では、めったに田園風景を見ることがない。少年時代の農村暮らしとはエラい違いだ。したがって、この句のような野積みにされた藁も知らないでいる。見かけたら、たぶん無惨だと思うだろう。昔は芸術品といってもよいほどの藁塚が、どんな田圃にも立っていたものだ。それが百姓の子の晩秋の抒情的風景のひとつでもあった。「俳句研究」の11月号(1997)を読んでいたら、作者の自註が載っていて「藁はただ野積みにされ、ことごとく焼かれてしまう時代になった。稲藁を焼き払って出稼ぎにゆく。……」とあった。空には藁塚の昔と変わらぬ凛とした鷹の飛翔する姿がある。この対比において、この句は作者の凛乎とした姿を伝えているのだ。昔はよかった、というのではない。切実な現世的事情が農民をして、みっともなくも荒っぽい所業に追いやったことを、作者は秋風とともに悲しんでいるのである。(清水哲男)


February 2321998

 菜の花の地平や父の肩車

                           成田千空

村暮鳥の「いちめんのなのはな」はつとに有名だが、作者はそんな風景のなかにある。幼かったころ、やはり「いちめんのなのはな」のなかで、父が肩車をしてくれたことを思いだしている。とんでもなく高いところに上ったような気分で、怖くもあり嬉しくもあった。いま眼前の菜の花の様子は昔とちっとも変わってはいないし、父のたくましい肩幅の広さも昔のままにちゃんと覚えている。こうやってあのころと同じように地平に目をやっていると、不意に父が現われて、また肩車をしてくれそうな感じだ。ここで父をしのぶ作者の心理的構造は、野球映画『フィールド・オブ・ドリームス』にも似て、「自然」に触発されている。母をしのぶというときに、多くは彼女の具体像からであるのに比べて、父親はやはり抽象的な存在なのだろう。肩車という行為自体が、非日常的なそれだ。しかりしこうして、なべて男は対象が誰であれ、なんらかのメディアを通すことによってしか想起されない生き物であるようだ。男は、女のようには「存在」できないらしいのである。「俳句」(1997年6月号)所載。(清水哲男)


June 2761999

 瓜の種噛みあてたりし世の暗さ

                           成田千空

は瓜といえば「胡瓜(キュウリ)」をさしたそうだが、今では瓜類の総称とする。「トウナス」も「ヘチマ」も瓜である。作者は現代の人だから、この場合は「マクワウリ」だろう。種をちゃんとよけて食べたつもりが、噛みあててしまった。その不愉快な気持ちが、「そう言えば」と世の中の暗さに行きあたっている。最近はロクなことがない、イヤな世の中だと独白したのかもしれない。ところで、作者の言う「世」とは、何をどのようにさしているのだろうか。普通に読んで「世の中」や「世間」、あるいは「社会」と受け取れるのだが、それはそれとして「世」ほどに厄介な概念も少ないなと、いつも思う。例えば私が「世」と言うときに、私の指示する「世」と相手が受けとめる「世」の概念とは、必ずしも符合するとは限らないからだ。「世」のひろがりを自然に世界情勢に結びつける人もいれば、ひどく狭い範囲でとらえる人もいる。お互いに「暗いね」とうなずきあっても、本当はうなずきあったことにはならない。滑稽ではあるが、こういうことは「世の中」でしょっちゅう起きている。ま、「世の中」とはそうしたものかも……。(清水哲男)


August 2182004

 鯉ほどの唐黍をもぎ故郷なり

                           成田千空

語は「唐黍(とうきび)」で秋。玉蜀黍(とうもろこし)のこと。私の田舎(山口県日本海側)では、南蛮黍(なんばんきび)と言っていた。作者は青森の人だが、手に重い大きな唐黍を畑でもいで、やはり故郷はいいなあと満悦している。こんなに大きくて充実したものは、他の地方ではめったに収穫できまいと、誰にともなく自慢している。このときに「鯉ほどの」という形容がユニークだ。植物が動物のようであるとはなかなか連想しにくいけれど、句のそれには無理が無い。まずはずしりと手に余る唐黍の大きさは鯉のように大きいのであり、とびきりのイキの良さや新鮮さもまた鯉のようであり、なによりも豪華な感じが鯉に似通っているというわけだろう。それこそ大きな鯉を釣り上げたときのような喜びが、句をつらぬいている。作者の故郷が鯉の有名な産地かどうかは知らないが、かつて上杉鷹山が米沢藩の濠で鯉を飼育したように、動物性蛋白質の乏しかった山国では鯉の養殖が盛んな地方が多かった。つまり、山国を故郷とする人々にとっては、鯉は特別に珍重さるべき魚なのであり、それだけに豪華のイメージは強いのである。句の「鯉ほどの」には、そうした山国の庶民生活の歴史感情も込められていると読めば、この純朴とも言える故郷賛歌がいっそう心に沁み入ってくるではないか。『現代俳句歳時記』(1989・千曲秀版社)所載。(清水哲男)




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