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May 0851997

 早乙女の月負へば畔細るなり

                           庄司圭吾

乙女は、田植えをす乙女のこと。それ以外の意味はない。角川書店編『俳句歳時記』(旧版)に「むかしは清浄な若い女子だけが(田植えに)従事したものだろう」という馬鹿な解説がある。金持ちの田植えイベントならいざ知らず、そんなことにこだわった百姓など、一人もいるものか。田植えは必死の労働なのだ。風流のためにあるわけじゃない。若い女が多かったのは、力仕事ではないからなのだ。女子供でもできたからである。私が子供だったころには、男の子の私も当然のように動員された。一日田にいると、小学生でも腰痛になった。古来、早乙女の句のほとんどは、腹の立つほど呑気なものである。そんななかで、この句は田植えが労働であることに触れている。夜になり、もはや畔(あぜ)もそれと認められないほどに細く感じられるなかで、はつかな月光を頼りに植える女たちの必死の労働に、よく呼応している。(清水哲男)


May 1252003

 早乙女のうしろしんかんたるつばめ

                           田中鬼骨

語は「早乙女(さおとめ)」で夏。田植えをする女性のこと。本義では田の神に仕える清らかな少女とされるが、現実的には田植えをする女性は老若を問わず少女とみなされたようで、誰もがみな早乙女なのである。田植えは辛抱強さが要求されるから、どちらかといえば女性に適った仕事だと思う。多くの句に詠まれている早乙女は、田植えを一気に片づけるために雇われた季節労働者だ。呑気に田植え歌などを歌いながらの仕事ではなく、日がな一日泥田を這い回る過酷な仕事をこなす女性たちのことだった。この句を読むと、作者が田植えの実践者であることがわかる。経験のない人には、なかなかこうは詠めない。というのも、後へさがりながら植えていく仕事だから、田植え人が気にするのは、いつも後方である。目の前にある植え終えた状態が成果なのではなく、後に残っっているスペースの狭さ広さが成果というわけだ。だから、自分とは無関係の田植えを見かけても、必ず反射的に「うしろ」を見てしまう。作者もそうやって見て、まだまだ「早乙女のうしろ」には広大なスペースが残されていている様子を詠んでいる。「しんかんたるつばめ」は単に黙って飛ぶ「つばめ」の状態を言ったのではなく、彼女らの後方に「つばめ」を飛ばすことで、残された仕事のための空間の大きさを暗示した言葉だと読める。漢字を当てるとすれば「森閑」よりも「深閑」に近いのかもしれないが、そのどちらのニュアンスも含めるために、あえて平仮名表記にしたのだろう。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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