May 271997
砂糖水飲む文弱の一守衛
小池一覚
そういえば、最近は「文弱(ぶんじゃく)」という言葉を聞かなくなった。詩や小説を書くことなどにかまけていて、世間的には弱々しいことをいう。意味は違うが「青白きインテリ」という言葉も、ひところ流行した。聞かないというと「砂糖水」も同様である。「知ってるかい」と尋ねたら「ソレって何ですか」と、若い人に言われてしまった。ただ砂糖を冷水に溶かしただけの飲み物だ。そして「守衛」もいまや「ガードマン」なのだから、作者せっかくの韜晦も、そろそろ通じなくなってくるだろう。雑誌「すばる」(97年6月号)に、中村真一郎が書いていた。「小生の年間所得、昨年は遂に五百万円を割る。文学出版の不況が、こちらに皺寄せの結果と、小生が時代からの遊離のため」。こちらのほうが、よく通じる。(清水哲男)
May 291999
休日は老後に似たり砂糖水
草間時彦
まだ「老後」というにはほど遠い、作者四十代後半の句。だから「老後に似たり」なのであるが、休日が老後に似ているのは、ふと思いついて砂糖水を飲んでみたりする心持ちが、老後の所在なさを連想させたからだろう。今日「砂糖水」と言っても若い人には通じないけれど、なんのことはない、砂糖を水に溶かしただけの飲み物だ。砂糖が貴重だった時代、氷水にして客などにふるまったことから「砂糖水」は立派に夏の季語の仲間入りを遂げている。でも、どことなく頼りないのが砂糖水の味だ。それが休日のように時間だけはあっても、なんだか薄味でつまらなそうな「老後」のありようとして、作者の視野には写っている。もとより、自分の「老後」のイメージは人さまざまであり、どんなふうに想像するのも自由だけれど、いずれは老後をむかえる人間として、句の連想に異議をとなえる人は少ないだろう。そんなところかも知れないな、というわけだ。しかし、この句を「老後」の人が読んだとしたら、どう思うだろうか。かつて詩人の天野忠が七十代のころ、老人でもない人間が、たとえ自分のことにせよ、「老後」や「老人」などと気安く言うでないと書いていたことを思いだす。「ぬるま湯につかったような老人言説」に、まぎれもない老人として、おだやかな筆致ながら猛反発していた怒りが忘れられない。『櫻山』(1974)所収。(清水哲男)
June 112004
一生の楽しきころのソーダ水
富安風生
季語は「ソーダ水」で夏。大正の頃から使われるようになった季語という。ラムネやサイダーとは違って、どういうわけか男はあまりソーダ水を飲まない。甘みが濃いことも一因だろうが、それよりも見かけが少女趣味的だからだろうか。いい年をした男が、ひとりでソーダ水を飲んでいる図はサマになるとは言いがたい。だからちょくちょく飲んだとすれば、句にあるように「一生の楽しきころ」のことだろう。まだ小さかった子供のころともとれるが、この場合は青春期と解しておきたい。女性とつきあってのソーダ水ならば、微笑ましい図となる。喫茶店でソーダ水を前にした若い男女の姿を目撃して、作者はあのころがいちばん楽しかったなあと若き日を懐古しているのだ。むろん、味などは覚えてはいない。ただそのころの甘酸っぱい思いがふっとよみがえり、やがてその淡い思いはほろ苦さに変わっていく。年をとるとは、そういうことでもある。ある程度の年齢に達した人ならば、この句に触れて、では自分の楽しかった時代はいつ頃のことだったかと想起しようとするだろう。私もあれこれ考えてみて、無粋な話だが、青春期よりも子供の頃という結論に達した。ソーダ水の存在すら知らなかった頃。赤貧洗うがごとしの暮らしだったけれど、力いっぱい全身で生きていたような感じがするからだ。その後の人生は、あの頃の付録みたいな気さえしてくる。強いて当時の思い出の飲み物をあげるとすれば、砂糖水くらいかなあ。「砂糖水まぜればけぶる月日かな」(岡本眸)。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)
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