19970530句(前日までの二句を含む)

May 3051997

 花石榴生きるヒントの二つ三つ

                           森 慎一

とこころが瞬間にぶつかって句が成る。よくあることなのだろうか。人事句でありながら、花石榴(はなざくろ)の実が一樹にぽつりぽつりとあるのを、永年見つづけてきた人の句。花はたくさん咲くが、実は少ない。やはり、二つ三つ。『風のしっぽ』所収。(八木幹夫)


May 2951997

 病院に母を置きざり夕若葉

                           八木林之助

親を入院させたのか、あるいは見舞いにいったのか。病院を出てくると、若葉が夕日に映えて実に美しい。ホッとさせられる。だが、その気持ちの下から、母を「置きざり」にしてきて、なぜ俺はホッとしたりできるのかという自責の念もわいてくる。肉親の入院は、人生での大きな出来事だ。最悪の事態までを考えたりと、ストレスはたまるばかり……。だから、不確かでも一応のメドが立つと、病院を離れた瞬間に、開放的な気分になるのが人情というものだろう。この句を、センチメンタルに重く読みすぎるのは間違いだ。むしろ読者は「夕若葉」の美しさのほうをこそ、読み取るべきではあるまいか。「夕若葉」を詠んだ句は、意外に少ない。(清水哲男)


May 2851997

 真清水も病みて野をゆく初夏よ

                           沼尻巳津子

の季節のさわやか(もっとも「さわやか」は秋の季語だけれど)な「真清水」と「初夏(はつなつ)」との取り合わせ。そこに、作者は病的な照明をあてている。「も」という助詞に注目せざるをえないが、このとき、作者は病身なのだろう。常識を裏切った句というよりも、自分の感性に忠実な句。身体が弱っていると、世の溌溂としたもの全てが疎ましくなる。が、この句。発熱の悪寒から解放されたときのような清々しさも湛えている。不思議な句境だ。なお、考えてみたい。『華彌撒』所収。(清水哲男)




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