June 061997
木いちごの落ちさうに熟れ下校どき
大屋達治
苺の旬(しゅん)は、野生や栽培物を問わず多く六月だ。農家だった私の家でも普通の苺は育てていたが、それよりも山野に自生している木苺のほうが美味だったように思う。黄金色に熟れた木苺は、酸味がなくて極上に甘かった。木の刺に用心しながら空の弁当箱いっばいに摘んで戻るのが、それこそ下校時の楽しみだった。句の「落ちさうに熟れ」が、いかにも木苺らしさを巧みに表現している。昔から木苺の句はたくさん詠まれてきてはいるが、木苺と子供の姿とをセットにした作品を他に知らない。不思議なことだ。サトウ・ハチローの『ジロリンタン物語』ではないけれど、大人の管理の外にある(なかには管理の内のものも含めて)ウマいものと子供とは、いつだって必ずひっついてきたものであるというのに……。それはともかく、どなたか、最近になって木苺を口にしたという「果報者」はおられますでしょうか。(清水哲男)
October 161997
いちじくに唇似て逃げる新妻よ
大屋達治
無花果に似ているというのだから、思わずも吸いつきたくなるような新妻の唇(くち)である。しかし、突然の夫の要求に、はじらって身をかわす新妻の姿。仲の良い男女のじゃれあい、完璧にのろけの句だ。実景だとしたら、読者としては「いいかげんにしてくれよ」と思うところだが、一度読んだらなかなか忘れられない句でもある。新婚夫婦の日常を描いた俳句は、とても珍しいからだろう。ただし、この句は何かの暗諭かもしれない。それが何なのかは私にはわからないが、とかく俳句の世界を私たちは実際に起きたことと読んでしまいがちだ。「写生句常識」の罪である。もとより、俳句もまた「創作」であることを忘れないようにしたい。(清水哲男)
January 242008
寒月や猫の夜会の港町
大屋達治
この句の舞台はフェリーや貨物船の停泊する大きな港ではなく、海沿いの道を車で走っているとき現れたかと思うとたちまち行過ぎてしまう小さな漁師町がふさわしい。金魚玉のような大きな電球を賑やかに吊り下げたイカ釣り漁船がごたごた停泊していて、波止場にたむろする猫たちがいる。彼らは家から出さぬように可愛がられた上品な飼い猫ではなく、打ち捨てられた魚の頭や贓物を海鳥と争って食べるふてぶてしい面構えのドラ猫が似合いだ。すばしっこくてずる賢くて、油断のならない眼を光らせた猫たちが互いの縄張りを侵さない距離をおいて身構える。寒月が冴えわたる夜、そんな猫たちがトタンの屋根の上に、船着場のトロ箱のそばに、黒い影を落としている。互いにそっぽを向いて黙って座っているのか、それとも朔太郎の「猫」に出てくる黒猫のように『おわあ、こんばんは』『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』と鳴き交わしているのか。どちらにしても三々五々集まってくる猫たちの頭上には寒月が白い光を放っている。「夜会」というちょっと気取った言葉が反語的に響いて、港町の猫たちの野趣をかえって際立たせるように思える。『寛海』(1999)所収。(三宅やよい)
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