1997ソスN6ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0661997

 木いちごの落ちさうに熟れ下校どき

                           大屋達治

の旬(しゅん)は、野生や栽培物を問わず多く六月だ。農家だった私の家でも普通の苺は育てていたが、それよりも山野に自生している木苺のほうが美味だったように思う。黄金色に熟れた木苺は、酸味がなくて極上に甘かった。木の刺に用心しながら空の弁当箱いっばいに摘んで戻るのが、それこそ下校時の楽しみだった。句の「落ちさうに熟れ」が、いかにも木苺らしさを巧みに表現している。昔から木苺の句はたくさん詠まれてきてはいるが、木苺と子供の姿とをセットにした作品を他に知らない。不思議なことだ。サトウ・ハチローの『ジロリンタン物語』ではないけれど、大人の管理の外にある(なかには管理の内のものも含めて)ウマいものと子供とは、いつだって必ずひっついてきたものであるというのに……。それはともかく、どなたか、最近になって木苺を口にしたという「果報者」はおられますでしょうか。(清水哲男)


June 0561997

 紫陽花や帰るさの目の通ひ妻

                           石田波郷

郷の句が苦手だという人は、意外に多い。いわゆる「療養俳句」の旗手だからではなく、描写が「感動を語らない」(宗左近)からである。この句もそうだ。見舞いに来た妻が、つと紫陽花に目をやったとき、その目が「帰るさ(帰り際)」の目になっていたというのだが、それだけである。妻の目が、作者にどんな感情を引き起こさせたのかは書かれていないし、読者に余計な想像も許さない。冷たいといえば、かなり冷たい感性だ。しかし、私は逆に、長年病者としてあらねばならなかった男の気概を感じる。平たく言えば、人生、泣いてばかりはいられないのだ。寂しい気分がわいたとしても、それを断ち切って生きていくしかないのだから……。(清水哲男)


June 0461997

 明日は又明日の日程夕蛙

                           高野素十

にもかくにも今日の仕事を消化して、作者はしばし夕蛙の鳴き声に耳を傾けている。ホッとしている。明日もまた忙しいが、明日は明日のこととして、今日はもう仕事のことは考えたくないという心境だ。このように、昔は蛙たちが一日の終りを告げたものだが、いまの都会では何者も何も告げてはくれない。もっと言えば、一日の終りなどは無くなってしまっている。だから、明日の日程のために眠ることさえできない人も増えてきた。過労死が起きるのもむべなるかな。こんな世の中を愚かにも必死につくってきたのは、しかし私たちなのである。『雪片』所収。(清水哲男)




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