June 161997
梅雨寒の昼風呂ながき夫人かな
日野草城
いかにも意味ありげで思わせぶりな句だが、フィクションだろう。十九歳で「ホトトギス」雑詠欄の巻頭を占めた草城には、女性を詠んだ作品が多い。代表的なのは、昭和九年(1934)の「をみなとはかゝるものかも春の闇」を含む「ミヤコホテル」連作だ。新婚初夜の花嫁をうたって、当時の俳壇では大変な物議をかもしたというが、これまたフィクションだった。こうした作家の姿勢は、たしかに古くさい俳句の世界に新風をもたらしたろうが、他方では思いつきだけの安易な句を量産させる結果ともなった。この句も道具だてが揃い過ぎていて、現代でいう不倫願望の匂いはあっても、底が浅い。山本健吉に言わせれば「才気にまかせて軽快な調子を愛し、物の真髄を凝視する根気に欠けていた」(新潮文庫『日野草城句集』解説)と、かなり手厳しいのである。なお「梅雨寒」は「つゆさむ」と濁らずに読む。『花氷』所収。(清水哲男)
June 151997
父の日をベンチに眠る漢かな
中村苑子
六月の第三日曜日は父の日。「漢」には「をとこ」と振り仮名がある。ホームレスの男だろうか。あるいは、酔っ払いだろうか。父の日だというのに、ベンチで眠りこけている。家族はないのだろうか。あるとしても、子供らは父のこのような姿は知らないだろう。しかし、作者は「お可哀そうに」と思っているわけではない。あえて「男」と書かずに「好漢」「悪漢」の「漢」を用いているのが、その証拠だ。むしろ、世間のヤワな風習などとは没交渉に生きている姿勢に、男らしさ、男くささを感じている。好感をすら抱いている。(清水哲男)
June 141997
形骸の旧三高を茂らしめ
平畑静塔
戦後の学制改革で、旧制高校はそれぞれ新制大学へと昇格(?)した。三高は京都大学吉田分校(教養部)となり、ひところは宇治分校で一年を過ごした二回生を受け入れる施設となっていた。私が在籍したとき(1959)にも感じたことだが、なんとも中途半端な存在で、学舎的魅力には乏しかった。ましてや静塔のように三高に学び、そこで俳句をはじめた人にとっては、自然に「形骸」という言葉が口をついて出てきても不思議ではない。作者の青春のときと同じように草木は茂っていても、形骸化してしまった三高の姿は見るにしのびないのだ。勢いよく茂るのであれば、もっともっと茂るにまかせよ。そんな心境だろうか。1954年の作品。『旅鶴』所収。(清水哲男)
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