June 191997
他郷にてのびし髭剃る桜桃忌
寺山修司
桜桃忌(おうとうき)は6月19日。作家太宰治の忌日。太宰は青森生まれ。昭和初期一番の人気作家となるが、昭和23年玉川上水で心中。享年39歳。墓は三鷹市下連雀の禅林寺にあり、その墓前で毎年盛大な桜桃忌がとり行なわれる。死ぬ前に伊藤左千夫の「池水は濁りに濁り藤なみの影もうつらず雨ふりしきる」の歌を残した話は名高い。今は梅雨の最中。この句は同じ青森出身の鬼才寺山修司が太宰を詠んでいることで興味を引く。おそらくは十代の句であろう。昭和後期に八面六臂の活躍をした寺山修司は、昭和58年5月4日、杉並阿佐谷の川北病院で死去。享年47歳。墓は八王子高尾霊園にある。桜桃忌はともかく、今度、寺山さんの墓参りにでも行くか。(井川博年) [編者註]「桜桃忌」の命名は、太宰と同郷で入水当時三鷹に住んでいた直木賞作家・今官一(こん・かんいち)による。 没後出版された『想い出す人々』(津軽書房・1983)に、こうある。 太宰の一周忌を終えて、伊馬春部と出て来ると、禅林寺の山門へ、パラパラとさくらの実が落ちてきた。 伊馬君とぼくは、その実をひろった。マッチ棒ほどの茎のついた、緑色の小さな実だった。 「これだ」とぼくは呟き「桜桃忌」といった。 「いいねえ」と伊馬君が答えた。 「桜桃忌」の由来である。 太宰の三回目の命日から、「桜桃忌」といわれるようになった。(中略)ぼくにしては、あれやこれや、桜桃忌のために骨を折ったつもりだが、なにひとつ報いられていない。近頃では、ぼくのほうが門外漢の感じになってしまった。……
June 192002
黒板に人間と書く桜桃忌
井上行夫
今日は「桜桃忌(おうとうき)」。作家・太宰治が1948年(昭和二十三年)六月十三日に愛人と玉川上水に入水し、この日に遺体が発見された。以前にも書いたことだけれど、私はあまり○○忌という季語を好まない。故人の身内や親しかった人々の間で使うのは結構だが、突然○○忌と言われても季節との関係がピンとこないからだ。ただ、そんななかで桜桃忌は比較的人口に膾炙している忌日だろうから、まあ使ってもよいだろうなとは思っている。少なくとも、一般には虚子忌(四月八日)よりも知られているはずだ。さて、掲句の作者は教師だろう。桜桃忌に際して、生徒たちに大宰のことを話している。「黒板に人間と」書いたのは、おそらく小説『人間失格』を教えるためで、しかし「人間」と書いたところで手が止まったのだ。一瞬、自分で書いた「人間」という文字を眺め直して、絶句しそうな思いにとらわれたのにちがいない。「人間」とは、何だろう。そして、さらに「失格」とは……。とてもじゃないが、知ったふうに生徒たちに解説などできない自分という「人間」にも突き当たった。黒板の「人間」の二文字が、不可解な異物のように感じられた。深読みに過ぎたかもしれない。が、この黒板の「人間」の文字のひどく生々しい印象から、ごく自然にこう読めてしまったということだ。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)
June 192004
黒々とひとは雨具を桜桃忌
石川桂郎
三十九歳の太宰治が女性と玉川上水で死んだのは、1948年(昭和二十三年)六月。入水したのは13日で、19日は遺体が見つかった日である。戦後三年目のことだった。当時の玉川上水は、いまと違って深くて流れも早く、土地の人は人喰い川と呼んでいたという。事実、都心から遠足に来た小学生が転落して溺れ、助けようとした教師が死んだ事件もあった。その先生の慰霊碑は、いまでも上水畔に見ることができる。句は桜桃忌が梅雨の最中であることを踏まえ、かつ戦後の暗鬱な世相をダブらせて詠まれている。太宰文学の暗さに、思いを馳せているのはもちろんだ。「黒々と」が、まことに骨太くそれを告げていて、頭を垂れた人々が戦後という雨期を影のように歩いてゆく姿が浮かぶ。このとき私は十歳で、遠く山口県の新聞で知った。当時の村では新聞の宅配はなく、すべての新聞は村役場まで届く。それを購読者は役場まで取りにいったものだが、私は毎日学校の帰りに寄って家の分を持ち帰っていた。そんなわけで、新聞はその日の日付のものではない。二日遅れか、あるいは三日遅れだったかの「朝日新聞」だった。小学生だったので、私が読めたのは漫画とスポーツ欄くらいだったけれど、太宰の入水のようなビッグ・ニュースだと大きく報じられたから、紙面にはタダゴトではない雰囲気が漂っていて、それで覚えているのだろう。他に紙面でよく覚えているは、同じ年の一月に起きた帝銀事件と、1950年(昭和二十五年)九月の伊藤律会見記だ。後者は三日後に記者のでっちあげとわかり、世間が騒然となった偽スクープ記事だった。日本共産党の大物・伊藤律はレッドパージで地下潜航中であったが、見出しは「姿を現した伊藤律氏 本社記者宝塚山中で問答」「徳田(球一)氏は知らない 月光の下 やつれた顔」というもの。縮刷版のこの日の社会面の中央部分は、いまでも削除されたまま白紙になっている。『合本俳句歳時記・新版』(1974・角川書店)所載。(清水哲男)
May 302007
骨までもをんなのかたち多佳子の忌
阿部知代
きのう五月二十九日は多佳子忌だった。多佳子に師事していた津田清子は「対象を真正面に引据え、揺さぶり、炎え、ときに突放した」と多佳子句を簡明に評している。多佳子の句の情感の濃さ激しさは、改めて言うまでもない。妙な言い方だが、頭のてっぺんから爪先まで「をんな」そのものであった。もちろん甘口の「をんな」ではなく、辛口の「をんな」のなかに、匂い立つような「をんな」の芳醇さが凛として炎え立っていた。その句や生き方のみならず、亡くなってなお骨までも「をんなのかたち」と、骨で多佳子をずばりとらえて見せた知代の感性もあっぱれ、只者ではない。かの「雪はげし抱かれて息のつまりしこと」の句が、女性ならではの句と言われるように、掲出句もまた女性ならではの傑作と言ってよかろう。女の鋭さが女の鋭さの究極をとらえて見せた。思わずドキッとさせられるような尖った熱さを突きつけている。多佳子の忌が、単に故人を愛惜し偲ぶだけにとどまらず、「をんな」の骨として今なお知代にはなまなましく感じられるのだろう。「骨までをんなのかたち」である「をんな」などざらにいるとは思われない。それにしても何ともエロティックな視点ではある。骨までが多佳子の意思であるかのように、今なお「をんな」として生きているようだ。知代には「添ふごとに独りは冴えて太宰の忌」という句もある。テレビ局のアナウンサーとして活躍し、「かいぶつ句会」「面」に所属している。『日本語あそび「俳句の一撃」』(2003)所収。(八木忠栄)
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