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July 0771997

 置手紙西日濃き匙乗せて去る

                           中島斌雄

話が普及していなかった頃には、しばしばこういうことが起きた。目上の人などとは手紙で訪問の日時を約束したが、親しい間柄では、とりあえず相手宅に出向いてみたものである。作者は友人の下宿を訪ねたのだろう。折りあしく不在だったが、顔見知りの大家が部屋に通してくれた。しかし、待てど暮らせど友人は戻らない。待ちくたびれて、置き手紙をして辞することにした。冷房設備など何もない部屋だから、窓は開け放しだ。風で飛ばないように、大家が出してくれた冷たいものに添えられた匙を使ったというわけである。濃い西日を受けて光る匙が、友情の象徴のように見える。男女の擦れ違いと読めなくもないが、そういうときには匙は乗せないだろう。(清水哲男)


October 07101998

 涸れ川を鹿が横ぎる書架の裏

                           中島斌雄

島斌雄。懐しい名前だ。二十歳にして「鶏頭陣」(小野蕪子主宰)の習作欄の選者となり、「沈みつつ野菊流るるひかりかな」(1931)のようなリリカルな句を数多く書き、戦後にはその清新な句風を慕って集まった寺山修司など多くの若い表現者に影響を与えた。今年は没後十年。懐しいと言ったのは、最近の俳句ジャーナリズムではほとんど目にしなくなった名前だからだ。なぜ、彼の名前が俳壇から消えたのか。それはおそらく、後年のこうした句風に関係があると思われる。端的に言えば、後年の斌雄の句は読者によくわからなくなってしまったのだ。この句について、理論家でもあった斌雄は、次のように解説している。「鹿のすがたが、書架をへだてて眺められるところが奇妙であろう。そんな風景は、この世に存在するはずはない……というのは、古い自然秩序を墨守する連中の断定にすぎまい。そこにこそ、新しい自然秩序、現実秩序があろうというものである。『書架』はあながち、文字どおりの書架である必要はないのだ。……」。ここだな、と思う。今の俳句でも、ここは大きな問題なのだ。自由詩では当たり前の世界が、俳句では大きな壁となる。その意味で、今なお中島斌雄は考えるに価する重要な俳人だと思う。『わが噴煙』(1973)所収。(清水哲男)


August 0181999

 柔かく女豹がふみて岩灼くる

                           富安風生

月。なお酷暑の日々がつづく。季語は「灼(や)く」で、言いえて妙。「焼く」よりも、もっと身体に刺し込んでくるような暑さが感じられる。昭和初期の新興俳句時代に、誓子や秋桜子などによってはじめられた比較的新しい季語だ。作者は動物園で着想を得たのだろうが、それを感じさせない奥行きを持つ。女豹(めひょう)のしなやかな姿態が、灼けた岩の上に、いとも楽々とある図は、どこかで現実を超えている神秘性すら感じさせる。灼けるような暑さのなかで、女豹のいる位置だけに、あたかも幻想の時が流れているようだ。同工の句に、中島斌雄の「灼くる宙に眼ひらき麒麟孤独なり」がある。こちらも動物園の世界の外を思わせはするけれど、「孤独」がいささか世界を狭くしてしまった。麒麟(きりん)を人間の「孤独」に引き寄せ過ぎている。つまり、麒麟の心を読者に解説したサービスによる失敗だ。見たままを言いっ放しにする度胸。言葉の直球を投げ込む度胸。俳句作りには、いつもこの度胸が問われている。(清水哲男)


March 1032004

 春闘妥結トランペットに吹き込む息

                           中島斌雄

語は「春闘」。たしかに、こんな時代があった。もはや、懐しい情景になってしまった。何日間も本来の仕事の他に、根をつめた労使交渉をつづけたあげくの「妥結」である。たとえ満足のゆく結果が出なかったとしても、ともかく終わったのだ。その安堵感の中で、久しぶりの休日に、趣味のトランペットを吹く時間と心の余裕ができた。楽器の感触を確かめながら、おもむろに息を吹き込む男の様子に、読者もほっとさせられる句である。とはいえ、現在の仕事の現場にいる人たちのほとんどには、もう掲句の味をよく解することはできないだろう。いまや春闘は一部大手企業の中でかろうじて命脈を保っているだけであり、他の人々には実質的にも実態的にも無縁と化してしまっているからだ。春闘がはじまったのは1955年(昭和30年)であり、季語にまでなって誰にも無関係ではない闘争であったものが、わずか半世紀の間にかくも無惨に形骸化するとは、誰が予測しえたであろうか。春闘をめぐっては数々の議論があって、とても紹介しきれないけれど、いずれにしても労使双方があまりにも経済一辺倒の価値観を持ちすぎたがために崩壊したと、私には写っている。「カネ」にこだわるあまりに、労働現場の改善はなおざりにされ、いまだにサービス残業や単身赴任などという異常な事態が、誰も不思議に思わないほどまでに定着しているのも、春闘の中身が何であったかを物語っている。このところの経団連は「不況と失業の時代なのだから、賃上げどころではない」と言いつづけているが、これは要するに旧態依然として「カネ」にこだわっている態度にすぎない。不況と失業の時代だからこそ、労働者を守り育てていかねばならぬ雇用者の責務を自覚していないのだ。話にならん。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)




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