1997ソスN7ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1071997

 紫蘇しげるなかを女のはかりごと

                           桂 信子

編小説の一場面か、芝居の一シーンのようだ。日常のさりげない場面にあって、作者は自己を劇化している。私などには句のなかの「はかりごと」よりも、この場面をこのような句にした作者の「はかりごと」に感じ入ってしまう。生い茂るいちめんの紫蘇のなかに立つ女の衣は何色だろうか。そんな想像をする楽しみもある。ところで、この句に作者の署名がなかったとすると、男性の作品と思う読者のほうが多いのではなかろうか。桂信子の句には、ときとしてそんな錯覚を抱かせるものがある。『初夏』所収。(清水哲男)


July 0971997

 髪長き蛍もあらむ夜はふけぬ

                           泉 鏡花

かにもお化け好きの鏡花らしい句。明滅する蛍の舞う奥の闇に不気味を感じる人はいても、蛍そのものに感じる人は稀だろう。髪の長い蛍という発想。それだけで、一度読んだら忘れられない作品だ。作者は、あるいは女性の姿態を蛍に見立てたのかもしれないが、それでも不気味さに変わりはない。一種病的な感覚だと思う。病的といえば、鏡花の食中毒恐怖症もすさまじいもので、大根おろしも煮て食べたというほどだ。『鏡花全集』所収。(清水哲男)


July 0871997

 米足らで 粥に切りこむ 南瓜かな

                           森 鴎外

が乏しいので、南瓜を多めに入れた粥を炊いた。茶碗によそってみると、南瓜が粥に切りこむような存在感を示している。明治の作品だが、戦後の食料不足を知る私などには、身につまされる句だ。南瓜ばかり食べていて、我が家ではみんな黄色い顔をしていた。それにしても、鴎外(「鴎」は略字)に俳句があるとは驚きだった。飯島耕一の『日本のベル・エポック』ではじめて知った。飯島さんに言わせれば「鴎外の句は、いかにも抒情詩的俳句で、どうやら句としての味にも深みに欠けるし、漱石には色濃くあった滑稽味もまったくない」と散々である。『うた日記』所収。(清水哲男)




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