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July 2071997

 紅蜀葵肱まだとがり乙女達

                           中村草田男

蜀葵(もみじあおい)は、立葵の仲間で大輪の花をつける。すなわち、作者は「乙女達」をこのつつましやかな花に見立てているわけで、そのこと自体は技法的にも珍しくないが、とがった肱(ひじ)に着目しているところが素晴らしい。若い彼女らの肱は、まだ少年のそれと同じようにとがっている。が、やがてその肱が丸みをおびてくる頃には、女としてのそれぞれの人生がはじまるのである。戦いのキナ臭さが漂いはじめた時代。彼女たちの前途には、何が待ち受けているのだろうか。今がいちばん良いときかもしれない……。作者はふと、彼女らの清楚な明るさに人生の哀れを思うのだ。第二句集『火の島』(1939)に収められた句。この作品の前に「炎天に妻言へり女老い易きを」が布石のようにぴしりと置かれている。時に草田男三十九歳。(清水哲男)


May 1351999

 蝶低し葵の花の低ければ

                           富安風生

といえば、普通は「立葵(たちあおい)」のことを言う。句も、立葵を詠んでいる。成長すると人の背丈ほどになり、花色は白、赤、ピンクなど多様で、茎の下のほうから咲き上るのが特長。そんな葵の生態を詠んだ句で、すなわち花に来る「蝶低し」だから、いまだ葵の花が下の方に咲いている初夏の候と知れるのである。「なるほどねえ」と、読者を感心させる理詰めの句だ。浪花節の「ナニがナニしてナンとやら……」にも似ており、俳諧的にもとても面白い。詩は発見が命だから、この技法による句は富安風生の詩の命である。この句が出た後に、「なるほどねえ」と思った何人もの俳人が、同工異曲の句を書いているけれど、いずれもいただけない。他人の命に、いくら接近してみても、ついに命は共有不可能だからだ。風生には、一見のんびりとした境地の句が多く見られるが、その技法においては、すこぶる鋭意な発見と冒険に満ちている。誰か、富安風生の生涯斬新でありつづけた技法について、腰を入れた文章を書いてくれないものか。『草の花』所収。(清水哲男)


July 0672004

 ずつてくる甍の地獄蜀葵

                           竹中 宏

語は「蜀葵(たちあおい・立葵)」で夏。ふつう「葵」と言うと、この立葵を指すことが多い。茎が真っすぐに伸びるのが特長で、そういうことからか、「野心」「大望」などの花言葉もある。「甍(いらか)」は瓦葺きの屋根のこと。♪甍の波と雲の波……の、あれです。句の表面的な情景としては、瓦屋根の住宅の庭に「蜀葵」が何本か、すくすくと成長して例年のように花を咲かせているに過ぎない。たいがいの人は、この季節の風物詩として観賞し微笑を浮かべるだけだが、作者はちょっと違う。無邪気に天に向かって背を伸ばしている蜀葵の身に、何か不吉な予感を抱いてしまったのだ。この天真爛漫さは危ない、と。しっかりと頭上を見てみよ。何が見えるか。そうだ、甍だ。気がついていないだろうが、あの甍は時々刻々わずかながらも少しずつ「ずつて」きている。このままいくと、やがては甍が頭上から一気にずり落ちてくるんだ。君らの上にあるのは「甍の地獄」なのだぞ。とまあ、簡単に言えばそういうことで、むろん作者は甍の落下が現実化するなどとは思ってもいないのだけれど、あまりに無防備な蜀葵の姿に接して、逆に不安を感じてしまったというところか。黒いユーモアの句であるが、事象の表面だけからではとらえられない現代の様相の怖さを示唆した句でもある。そしてこの句はまた、木を見て森を見ない態の句が氾濫する俳句界への批評と受け取ることもできるだろう。『アナモルフォーズ』(2003)所収。(清水哲男)


December 09122006

 赤く蒼く黄色く黒く戦死せり

                           渡辺白泉

車の中での高校生らしき二人連れの会話。「日本とアメリカって戦争したことがあるんだって」「うそ〜、それでどっちが勝ったの?」……つい最近知った実話である。そんな彼等が修学旅行で広島へ長崎へ、遺された悲惨な光景に涙を流す。しかしそれは映画を観て流す涙と同質のものであり、やがて乾き忘れられていくのだ。体験していないというのはそういうことだろう。かくいう私も昭和二十九年生まれ、団塊の闘士世代と共通一次世代のはざま、学生運動すら体験していない。〈白壁の穴より薔薇の国を覗く〉〈立葵列車が黒く掠めゐる〉〈檜葉の根に赤き日のさす冬至哉〉鮮やかな色彩が季題を得て、不思議な感覚で立ち上がってくる白泉の句。しかし掲句にあるのは、燃えさかり、溢れ出し、凍え、渦巻く、たとえようもない慟哭に包まれた光景であり、それは最後に燃え尽きて暗黒の闇となり沈黙するが、読むものには永遠に訴え続ける。前出の会話は、宇多喜代子さんがとある講座で話されていたのだが、その著書『ひとたばの手紙から・戦火を見つめた俳人たち』の中で初めてこの句にふれ、無季だからと素通りすることがどうしてもできなかった。季題の力が、生きとし生けるものすべてに普遍的に訪れる四季に象徴される自然の力だとすれば、その時代には、生きているすべての命にひたすら戦争という免れがたい現実が存在していた。今は亡き、藤松遊子(ゆうし)さんの句を思い出す。〈人も蟻も雀も犬も原爆忌〉『ひとたばの手紙から』(2006・角川学芸出版)所載。(今井肖子)




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