July 241997
遠雷や父の電車は絵の中に
柴崎昭雄
たそがれ時、一天俄かにかき曇り、遠くでは不気味に雷が鳴りはじめた。遠雷(えんらい)の方角は、ちょうど父が働いている土地の上空のようだ。「傘は持っているだろうか」と、少年は心配する。「でも、この時間ならもう電車の中だろうな」と、壁に貼った自分の絵の中の電車を見やるのである。絵の中の電車は、いつものようにのんびりと走っている……。現実に遠くを走る電車から自室の絵の中の電車へと、素早く焦点を移動させているところが魅力的だ。そして、遠くにいる父をさっと身近に引き寄せた感性の遠近法も。『木馬館』所収。(清水哲男)
January 091998
冬木立ばたりと人が倒れたり
柴崎昭雄
実景かもしれないが、私は想像した光景と読んだ。そのほうが面白い。枯れ木のつづく道を歩いていた人が、突然倒れてしまう。滑って転んだというようなことではなくて、急にワケもなく倒れてしまったのだ。しかも、音もなく……。「ばたり」は音ではなく、あっけなく倒れる様子を表現している。そして、この人は永遠に起き上がることもなくて、あたりはまたしんと静まりかえった冬木立だけの世界である。トポールの白と黒の絵を知っている人なら、たとえばあの絵が動いてこうなったのだと思うと、私の解釈にさして無理のないことを納得していただけるかもしれない。滑稽と無気味が共存しているユニークな発想だ。作者の詩的出発は川柳だから、それが冬木立でありうべき光景をとらえるのに効果的な力を発揮しているのだと見た。作者は、十八歳のときのバイクによる事故が原因で車椅子生活をつづけている。青森県在住。『木馬館』(1995)所収。(清水哲男)
November 172004
初雪も肉体もまだ日の匂い
柴崎昭雄
作者は青森在住。青森地方気象台によれば、今年の初雪は10月27日だった。平年よりも、少し早めだろうか。ちらちらと、今年はじめての雪が舞いはじめた。空も風景も灰色に染まってはいるけれど、でも、どこかにまだ秋の名残りの明るさも感じられる。真冬のまったき鈍色の世界ではない。それを「日の匂い」と、臭覚的に捉えたところがユニークだ。雪にも日の匂いが感じられ、あまり雪らしくはなく、同時に人々の「肉体」にも、まだ雪に慣れない感覚が優先している。戦後の一時期に、俳句の世界で「身体」なる言葉が流行したことがあるけれど、あれは多分に精神性を含んだ肉体の意であった。が、掲句の場合には「カラダだけは大事にしろよ」などというときの「カラダ」の意に近いだろう。私の住む東京の人などと違って、雪国の人はみな、降雪現象に対する一種の諦念が自然に備わっているのだと思う。ジタバタしてもはじまらない、降るものは降るのだから……という具合にである。このときに、頼りになるのは「カラダ」だけなのだ。その「カラダ(肉体)」に「まだ日の匂い」を感じ取るというのは、そうはいっても「初雪」だけは別物だからに違いない。降るものは降ると覚悟を定める前の微妙な心の揺れが、この表現には滲んでいるようだ。いわば身体から肉体へと重心を移動させるときの、束の間の逡巡が巧みに詠まれていると感じた。『少年地図』(2004)所収。(清水哲男)
『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます
|