September 011997
震災忌向あうて蕎麦啜りけり
久保田万太郎
昭和三十五年、死の三年前の作品である。万太郎は浅草生まれで、震災にもあい戦災にもあった。そういうこともあり、まったく物質的な執着がない人だったという。大震災からはるかな年月を経て、そば屋で当時の体験などを話しながら向き合っているのは誰だろうか。それが誰であろうと、作者はここにこうして生きてある自分の幸運をこそ味わっているのだ。この句は、万太郎門の成瀬櫻桃子が月刊「うえの」の最新号(1997年9月号)で紹介している。万太郎は常々「蕎麦は、食べると言っては駄目。啜る(すする)だ」と、弟子たちに教えていたと書いている。(清水哲男)
September 011998
電線のからみし足や震災忌
京極杞陽
切れて落ちてきた電線が足にからまるという生々しい恐怖感。関東大震災から実に三十五年後(1958)にして、作者はようやくこのように詠むことができた。この句については「ホトトギス」同人の山田弘子の解説がある(京極杞陽句集『六の花』・ふらんす堂・1997)ので、以下、それに譲る。「大正一二年九月一日関東地方を襲った大震災で、京極高光(後の杞陽)の家屋敷は倒壊焼失し、只一人の姉を除き祖母、父母、弟妹ら家族の全員を喪うという悲運に遭遇した。学習院中等科三年、一五歳の時であった。火災に巻き込まれつつ逃げのび九死に一生を得た高光は、後日焼け落ちた玄関に正座のままこと切れていた老家僕の亡骸と対面したという。多感な青春時代に遭遇したこの悲運は、杞陽の人生観・死生観に生涯にわたり大きく影響を及ぼして行った筈である。杞陽を知る上で関東大震災は重要なキーワードの一つと言うことが出来る」。もとより杞陽にかぎらず、久保田万太郎など、関東大震災は多くの人々の生涯にわたる深い傷となって残った。そして阪神淡路大震災の傷跡は、いまに生々しい。『但馬住』(1961)所収。(清水哲男)
September 012007
焼跡にまた住みふりて震災忌
中村辰之丞
大正十二年九月一日の未明、東京にはかなりの風雨があったという。そして夜が明けて雨はあがり、秋めく風がふく正午近く、直下型大地震が関東地方を襲ったのだった。その風が、東京だけで十万人を越える死者を数える悲劇を生む要因となった大火災に拍車をかけることになるとは、思いもよらなかったにちがいない。作者が歌舞伎役者であることを思えば、代々生まれも育ちも東京だろう。焼跡に、とあるので、旧家は焼失したのかもしれない。年に一度巡り来る震災忌、その惨状が昨日のことのようによみがえってくる。そして、失われた風景や人々を思う時、流れた月日の果てに今ここに自分が生きているということを複雑な思いでかみしめているのだ。また、の一語が、作者の感慨を伝え、さまざまな感情や年月をふくらませる。その後、再び東京が焼け野原になる日が来ることもまた、思いもよらなかったであろう。関東大震災から八十年以上、どんどん深くなる新しい地下鉄、加速する硝子の高層ビルの建設ラッシュの東京で、今日一日はあちこちで防災訓練が行われる。ずっと訓練だけですめば幸いなのだが。「俳句歳時記」(1957・角川書店発行)所載。(今井肖子)
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