G黷ェ|句

September 2991997

 伐竹をまたぎかねたる尼と逢ふ

                           阿波野青畝

から「竹八月に木六月」といって、陰暦八月頃は竹伐採の好季である。山道では道路交通法など関係がないから、とりあえず伐り出した竹はそこらへんの道端に放り出しておく。そこへ裾長の衣の尼さんが通りかかると、どうなるか。枝葉のついた大きな竹だから、またぐにまたげず立ち往生ということになる。放り出した人は山に入ったままなので、どうにもならない。そんな尼僧と会ったというのだが、このあと作者はどうしたのだろうか。そちらのほうが気になってしまう句だ。人気(ひとけ)の少ない山里での情景だけに、困惑している尼僧の姿が妙になまめかしく感じられる。(清水哲男)


November 06112005

 掌にひたと吸ひつく竹を伐る

                           大島雄作

語は「竹(を)伐る」で秋。昔から「竹八月に木六月」と言い、陰暦の八月が竹、六月が木の伐採の好期とされ、陽暦では九月以降今頃くらいまでが竹の伐り時だ。少年時代、田舎にいたころは、竹はそこらへんにふんだんに生えていたから、何かというと伐ってきて使った。むろん所有者はいたはずだけれど、子供が一本や二本くらい伐るぶんには、黙認されていたようだ。近所の柿や栗を勝手に取って食べても、叱られなかったのと同じことである。釣り竿や山スキーの板、ちゃんばらごっこの刀身や野球のバット、小さい物では凧作りに使うヒゴだとか水鉄砲や竹笛用など。で、掲句を読んで、途端に久しく忘れていた生きた竹の感触を思い出した。懐かしや。句にあるように、たしかに生きている竹は、握ると「掌にひたと吸ひつく」のである。どういうことからなのか、理由は知らない。とりわけて寒い日などには、冷たい竹がひたと吸いつくことを知っているから、握る瞬間にちょっと躊躇したりした。仕事で大量に伐採する大人なら軍手をはめるところなのだが、子供にそんな洒落たものの持ち合わせは無い。ひんやりと吸いついてくる感触を嫌だなと思いながら、鉈をふるったものである。作者もまた、素手で握っている。だから伐ることよりも、吸いついてくる感触にまず意識がいっているわけだが、こう詠むことで、このときの山の生気までがよく伝わってくる。頭では作れない句の典型だろう。『鮎笛』(2005)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます