譚大アア蜿、驛キ縺ョ句

October 24101997

 天高し不愉快な奴向うを行く

                           村山古郷

高し。気分がすこぶるよろしい。ストレスなんぞゼロ状態で歩いていると、不意にイヤな奴が向こうのほうを歩いていくのが目に入った。とたんに、不愉快になってしまった。奴もきっとストレスゼロ状態なのだろうなと思えるので、ますますイヤな感じになる。それで、足取りも自然に重くなる。……というわけなのだが、なに、先方だって同じことかもしれない。こちらに気がついたら、きっと気分はおだやかじゃなくなるのだろう。ま、いいじゃないですか。せっかくの上天気なのです。人間万歳なのです。この句をはじめて読んだときには、吹き出してしまった。誰もが上機嫌になることを前提にしたような季語「天高し」を、かくのごとく自在に操ることのできる技術を指して、常識では「芸」というのである。(清水哲男)


April 0641998

 薮の小家より入学の児が出て来

                           村山古郷

蔭の小さな家。ふだんは人の気配もあまりないのだろう。老夫婦がひっそりと暮らしているような趣きの家だ。そんな家から、いきなりピカピカの一年生が飛び出してきた。この意外性に、作者は一瞬驚いたのだが、すぐになんだか嬉しい気持ちのわいてくる自分を感じている。この瞬間から、作者のこの小家に対する感じ方は、大きく変わったことだろう。今日は全国各地で入学式が行われる。石川桂郎に「入学の吾子人前に押し出だす」があるが、たぶん私も押しだされたクチである。内気を絵に描いたような子供だった。入学のとき、桜が咲いていたのかどうか、まったく覚えていない。敗戦の一年前のことで、入学後は警戒警報のサイレンが鳴るたびに、頭上にアメリカの偵察機や爆撃機を見ながら下校するというのが日常であった。すなわち、我らの世代は、小学校もロクに出ていないのである。(清水哲男)


April 0142000

 万愚節ともいふ父の忌なりけり

                           山田ひろむ

日という日に、このような句に出会うとシーンとしてしまう。偶然とはいえ、父親の命日とエープリル・フールが同じだったことで、作者は世間にいささか腹を立てている。「ともいふ」に、その気持ちがよくあらわれている。たとえば元日に亡くなった身内を持つ人もやりきれないだろうが、万愚節が忌日とは、もっとやりきれないかもしれない。軽いジョークの飛び交う日。人々が明るく振るまう日。そういうことになっている日。しかも、四月馬鹿「ともいふ」日である。父親を悼む心に、世の中から水をかけられているような気分がするだろう。ご同情申し上げる。四月一日の句で圧倒的に多いのは、掲句の作者を嘆かせるような都々逸的、川柳的な作品だ。「船酔の欠食五回四月馬鹿」(大橋敦子)しかり、「丸の内界隈四月馬鹿の日や」(村山古郷)またしかりだ。後者は、四月馬鹿の日にも、せっせと生真面目に働く丸ノ内界隈のサラリーマンたちを皮肉っている。ところでついでながら、Macユーザーの方は本日の「アップルルーム」を見てください。私の好きな真面目なサイトです。でも、今日のコラムやバナー広告は、全部ウソで塗り固められているはずですから。(清水哲男)


May 2152000

 グラジオラス妻は愛憎鮮烈に

                           日野草城

夏の花だ。村山古郷に「グラジオラス一方咲きの哀れさよ」がある。たしかに一方向に向いて咲きそろい、葉は剣の形をしている。が、少しもトゲトゲしい植物という印象はない。したがって「哀れ」とは「もののあはれ」の「あはれ」だろう。一方咲きの習性は、どうにもならぬ。こんなにも、すずやかで可憐な花なのに、何をどうしてそんなに頑張ってしまうのか。そんなグラジオラスの習性を妻のそれに例えたのが、掲句というわけだ。「愛憎」や「好き嫌い」が激しい。事物についても人物についても……。そんな細かいことまでに、いちいち愛憎をあからさまにしなくてもいいじゃないか。もっとゆったりと、安らかに生きてほしいよ。第一、そんなツンケンした態度は、あなたには似合わないのに……。そう思いながら、日々暮らしている。しかし、本日は暑さも暑し。だから、いささかのうとましい気持ちも湧いてきてしまう。「妻」はともかくとしても、引き合いに出されたグラジオラスには、いい迷惑な句ではある。こんなふうに言われたら、ますますかたくなに一方咲きに固執したくなるではないか(笑)。『俳諧歳時記・夏』(1984・新潮文庫)所載。(清水哲男)


June 2862010

 川甚に来れば雨やむ夏料理

                           村山古郷

の店「川甚」には、一度だけ行ったことがある。もう三十数年も前のことだが、たしか詩人の会田綱雄さんを囲む会だった。江戸期に操業した川魚料亭で、柴又帝釈天の近くにある。夏目漱石、幸田露伴、谷崎潤一郎、尾崎士郎、松本清張など数々の文人が訪れたことでも有名で、寅さん映画の第一作にも登場している。句意は説明するまでもあるまいが、いかにも夏料理にふさわしい涼風も感じられて好もしい。こういう句は、この句を俳誌「俳句」で紹介しているいさ桜子の言うように、「句は、風景・場所との取り合わせで成り立っています。風景・場所は誰でも知っている特定の所というイメージが立つ事が重要です」。が、私に言わせればその前にもうひとつ。作者その人のイメージが、もっと重要な要素になるだろう。平たく言ってしまえば、作者その人のイメージと店の格とが釣り合っていなければならない。私のようにたった一度だけ行ったことがある程度では、まったく釣り合いがとれないから、句にはならない。広い意味での文人俳句にはこの要素が多く、漱石だから露伴だからはじめて句として読める作品は枚挙にいとまがない。そう考えると、この句には羨望の念と同じくらいに反発心も覚えてしまう。「俳句」(2010年7月号)所載。(清水哲男)




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