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1997ソスN11ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 01111997

 手で磨く林檎や神も妻も留守

                           原子公平

と林檎が食べたくなった。普段なら妻に剥いてもらうところだが、あいにく外出している。自分で剥くのは面倒なので、手でキュッキュッと磨いて皮のまま食べようとしている。こんな姿を妻に見つかったら「不精」を咎められるだろう。などと、一瞬思ったときに気がついた。季節は陰暦十月の神無月。ならば、ここには妻もいないが神もいないということだ。「俺は自由だ……」。作者はそこでなんとなく解放された気分になり、いたずらっ子のようににんまりしたくなるのであった。夫が家にいないと清々するという妻は多いらしいが、その逆もこのようにあるということ。『風媒の歌』(1957-1973)所収。(清水哲男)


October 31101997

 蛇の髯の實の瑠璃なるへ旅の尿

                           中村草田男

書に「京都に於ける文部省主催『芸術学会』に出席、旧友伊丹萬作の家に宿りたる頃」とある。昭和17年秋。伊丹は病臥していた。「蛇(じゃ)の髯(ひげ)」(実は「竜の玉」とも)庭の片隅や垣根などに植えられるので、立小便には格好の場所に生えている。したがってこの句のような運命に見舞われがちだ。しかし、作者は故意にねらったわけではないだろう。時すでに遅しだったのだ。恥もかきすてなら、旅でのちょっとした失策もかきすてか……と、濡れていく鮮やかな瑠璃色の球を見下ろしながらの苦笑の図。底冷えのする京都の冬も間近い。「尿」は「いばり」。『来し方行方』(1947)所収。(清水哲男)


October 30101997

 船員とふく口笛や秋の晴

                           高野素十

つてパイプをくわえたマドロスの粋な姿が大いにモテたのは、もちろん彼らが行き来していた外国への庶民の憧れと重なっている。片岡千恵蔵の映画「多羅尾伴内シリーズ」の「七つの顔」のひとつは「謎の船員」であったし、美空ひばりなどの流行歌手も数多くのマドロス物を歌っている。戦前、素十は法医学の学徒としてドイツに留学しているから、この句はその折の船上での一コマかもしれない。船員といっしょに吹いたメロディーは望郷の歌でもあったろうか。秋晴れの下の爽快さを素直に表現しているなかに、充実した人生への満足感が滲み出ている。そういえば最近は、口笛を吹く人が減ってきたような気がする。私の住居の近辺に、休日ともなると機嫌よく口笛を吹きながら自転車の手入れする少年がいる。救いがたいほどの音痴なのだけれど、私はとても楽しみにしており、ヒイキしている。『初鴉』(1947)所収。(清水哲男)




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