東京は快晴。早朝の気温は10度を切り空気は乾燥している。深まりゆく秋……。




1997ソスN11ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 02111997

 栗みのる六分の侠気秘めながら

                           坂本木耳

を擬人化してその心根を想像すると、こういうことになる。「いまに見ていろ」と耐え忍びながら、時機が到来すれば「サルカニ合戦」のクリのように弱者を助け強者を倒す。この句はおそらく、与謝野鉄幹の「ひとを恋ふる歌」から来ている。「妻を娶らば才長けて……/友を選ばば書を読みて六分(りくぶ)の侠気四分の熱」と、旧制高校生の愛誦歌だった。侠気だの男気などはいまどき流行らないけれど、私が高校生(新制)だったころの大人たちには、まだそんな気風が色濃く残っていたことを覚えている。みなさん、七十の坂を越えてしまった。(清水哲男)


November 01111997

 手で磨く林檎や神も妻も留守

                           原子公平

と林檎が食べたくなった。普段なら妻に剥いてもらうところだが、あいにく外出している。自分で剥くのは面倒なので、手でキュッキュッと磨いて皮のまま食べようとしている。こんな姿を妻に見つかったら「不精」を咎められるだろう。などと、一瞬思ったときに気がついた。季節は陰暦十月の神無月。ならば、ここには妻もいないが神もいないということだ。「俺は自由だ……」。作者はそこでなんとなく解放された気分になり、いたずらっ子のようににんまりしたくなるのであった。夫が家にいないと清々するという妻は多いらしいが、その逆もこのようにあるということ。『風媒の歌』(1957-1973)所収。(清水哲男)


October 31101997

 蛇の髯の實の瑠璃なるへ旅の尿

                           中村草田男

書に「京都に於ける文部省主催『芸術学会』に出席、旧友伊丹萬作の家に宿りたる頃」とある。昭和17年秋。伊丹は病臥していた。「蛇(じゃ)の髯(ひげ)」(実は「竜の玉」とも)庭の片隅や垣根などに植えられるので、立小便には格好の場所に生えている。したがってこの句のような運命に見舞われがちだ。しかし、作者は故意にねらったわけではないだろう。時すでに遅しだったのだ。恥もかきすてなら、旅でのちょっとした失策もかきすてか……と、濡れていく鮮やかな瑠璃色の球を見下ろしながらの苦笑の図。底冷えのする京都の冬も間近い。「尿」は「いばり」。『来し方行方』(1947)所収。(清水哲男)




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