娘がドイツから帰ってきた。そうだ、私には孫がいたのだ…。彼は来月で2歳になる。




1997ソスN11ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 08111997

 鳥渡る老人ホームのティータイム

                           山尾玉藻

人ホームとは、どんなところなのだろうか。長生きすれば入ろうと思っているが、正直いって不安だ。集団生活には馴染めない性質で、学校が嫌いだった。しかし、学校には卒業という制度がある。まだしも、そこから近未来的には逃れて生きていける希望がある。老人ホームを出ていくのは、死んだときだけだ。そう考えると、無性に切ない。スティーブン・キングの『グリーン・マイル』を読んでいたら、ホームの仲間よりも若い従業員にいじめられる可能性が高いとわかった。そんなことはともかくとして、この句はいい。余命いくばくもない人たちのお茶の時間に、今年も鳥たちは元気に、委細構わず渡ってくる……。生きる勢いは違っていても、お互いにこのとき「自然体」であることに変わりはない。モダンにでもなく古風にでもなく、作者はありのままの現実をうたい、うたうことに集中している。「俳句研究」(1997年11月号)所載。(清水哲男)


November 07111997

 秋の雲立志伝みな家を捨つ

                           上田五千石

月に急逝した作者の、いわば出世作。その昔は、何事かへの志を立てた人物は、まず「家」からの自立問題に懊悩しなければならなかった。多くの立志伝の最初の一章は、そこから始まっている。晴朗にして自由な秋の雲に引き比べ、なんと人間界には陰湿で不自由なしがらみの多いことか。嘆じながら作者は、再び立志伝中の人々に思いをめぐらすのである。継ぐべき「家」とてない現代は、価値観の多様化も進み、志の立てにくい時代だ。このことを逆に言えば、妙な権威主義的エリートの存在価値が希薄になってきたということであり、私はこの流れに好感を持っている。ふにゃふにゃした若者の志が、如何にふにゃふにゃしていようとも、「家」とのしがらみに己の人生を縛られるような時代だけは、私としてもご免こうむりたいからだ。『田園』所収。(清水哲男)


November 06111997

 鷹ゆけり風があふれて野積み藁

                           成田千空

のように街の中をかけずりまわっている生活では、めったに田園風景を見ることがない。少年時代の農村暮らしとはエラい違いだ。したがって、この句のような野積みにされた藁も知らないでいる。見かけたら、たぶん無惨だと思うだろう。昔は芸術品といってもよいほどの藁塚が、どんな田圃にも立っていたものだ。それが百姓の子の晩秋の抒情的風景のひとつでもあった。「俳句研究」の11月号(1997)を読んでいたら、作者の自註が載っていて「藁はただ野積みにされ、ことごとく焼かれてしまう時代になった。稲藁を焼き払って出稼ぎにゆく。……」とあった。空には藁塚の昔と変わらぬ凛とした鷹の飛翔する姿がある。この対比において、この句は作者の凛乎とした姿を伝えているのだ。昔はよかった、というのではない。切実な現世的事情が農民をして、みっともなくも荒っぽい所業に追いやったことを、作者は秋風とともに悲しんでいるのである。(清水哲男)




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