日本人妻里帰り。政治的な壁があることで帰れた人。壁はないが極貧で帰れぬ人。




1997ソスN11ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 09111997

 爛々と虎の眼に降る落葉

                           富沢赤黄男

葉の句には、人生のちょっとした寂寥感をまじえて詠んだものが多いなかで、この句は異色中の異色と言える。動物園の虎ではない。野生の虎が見開いている爛々(らんらん)たる眼(まなこ)の前に、落葉が降りしきっているのである。そんな状況のなかでも、微動だにしない虎の凄絶な孤独感が伝わってきて、一度読んだら忘れられない句だ。作者がこの虎の姿に託したのは、みずからの社会的反逆心のありどころだろうが、一方ではそれが所詮は空転する運命にあることもわきまえている。昔の中国の絵のような幻想に託した現実認識。深く押し殺されてはいるけれど、作者の呻き声がいまにも聞こえてきそうな気がする。(清水哲男)


November 08111997

 鳥渡る老人ホームのティータイム

                           山尾玉藻

人ホームとは、どんなところなのだろうか。長生きすれば入ろうと思っているが、正直いって不安だ。集団生活には馴染めない性質で、学校が嫌いだった。しかし、学校には卒業という制度がある。まだしも、そこから近未来的には逃れて生きていける希望がある。老人ホームを出ていくのは、死んだときだけだ。そう考えると、無性に切ない。スティーブン・キングの『グリーン・マイル』を読んでいたら、ホームの仲間よりも若い従業員にいじめられる可能性が高いとわかった。そんなことはともかくとして、この句はいい。余命いくばくもない人たちのお茶の時間に、今年も鳥たちは元気に、委細構わず渡ってくる……。生きる勢いは違っていても、お互いにこのとき「自然体」であることに変わりはない。モダンにでもなく古風にでもなく、作者はありのままの現実をうたい、うたうことに集中している。「俳句研究」(1997年11月号)所載。(清水哲男)


November 07111997

 秋の雲立志伝みな家を捨つ

                           上田五千石

月に急逝した作者の、いわば出世作。その昔は、何事かへの志を立てた人物は、まず「家」からの自立問題に懊悩しなければならなかった。多くの立志伝の最初の一章は、そこから始まっている。晴朗にして自由な秋の雲に引き比べ、なんと人間界には陰湿で不自由なしがらみの多いことか。嘆じながら作者は、再び立志伝中の人々に思いをめぐらすのである。継ぐべき「家」とてない現代は、価値観の多様化も進み、志の立てにくい時代だ。このことを逆に言えば、妙な権威主義的エリートの存在価値が希薄になってきたということであり、私はこの流れに好感を持っている。ふにゃふにゃした若者の志が、如何にふにゃふにゃしていようとも、「家」とのしがらみに己の人生を縛られるような時代だけは、私としてもご免こうむりたいからだ。『田園』所収。(清水哲男)




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