拓銀危機から政府が不良債権対策に本腰の気配で株価が急騰という笑えない漫画。




1997ソスN11ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 18111997

 雑炊に蟹のくれなゐひそめたり

                           山田明子

の作品は角川版『俳句歳時記』(1974)に載っていて、当時読んですぐに好きになった句だ。ちなみに、現在出ている新版からは、残念なことに削られてしまっている。作者については何も知らないが、心根の美しい人であるに違いない。料理屋などが出す雑炊はちゃんと米から仕立てるので、もとよりそれなりに美味ではある。が、家庭ではこの場合のように余ったご飯を雑炊にするのが普通だから、ちらりと蟹の脚(これも余り物)をひそませておく心づかいは、また格別のおいしさに通じるだろう。どんな料理の味も、料理人の機転が左右する。その機転に押しつけがましさのない愛情が加わったとき、たかが雑炊(おじや)といえどもが、至上のご馳走になるのである。この句は、雑炊を食べたい気持ちよりも、むしろ作ってみたい気持ちを起こさせてくれる。(清水哲男)


November 17111997

 寝るだけの家に夜長の無かりけり

                           松崎鉄之介

中多忙で飛び回っている人にとって、家は単に寝に帰るだけの場所だから、なるほど「夜長」もへちまもない理屈である。物理的時間的な余裕のなさもさることながら、精神的にも「夜長」を味わうことのできない日常。猛烈サラリーマンの時代は去ったとはいえ、まだまだ働く男たちのなかには、このような心情の持ち主も多いのではなかろうか。自嘲の句であるが、諦めと怒りの感情が交錯しているようなところが味わい深い。季語「夜長」の常識的な抒情を逆手にとった面白さ。作者は大野林火を継いでの俳誌「濱」の主宰者である。『巴山夜雨』(1995)所収。(清水哲男)


November 16111997

 黄落やジーンズ家族に空の青

                           藤田直子

ながら、この季節の家庭雑誌の表紙絵のようだ。晴れた日の昼下がり、ジーンズ姿の一家四人(とは書いてないけど)が黄落する山道か公園を歩いている。真青な空を背景に、黄色い木の葉がときおり舞い落ちてくる。おだやかな小春日の、なんでもない一齣だが、この種の記憶は案外いつまでも残るものなのだ。ひょっとすると「黄落」は「行楽」にかけられているのかもしれない。そう読むと、ちょっと怖い。この一家のささやかな幸福感も、やがては枯れて散りはててしまうことを、作者が予感していることになるからだ。でも、たぶんこれは深読みだろう。字面通りに素直に受け取っておくほうが楽しいし、精神衛生的にもよろしいと思う。余談だが、一年中ジーンズで通している私には、俳句にジーンズが出てくるだけで、単純に嬉しくなってしまうところがある。『極楽鳥花』(1997)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます