バスの中で咳をする人の数が増えてきた。喉の仕事には、痛風よりも風邪が怖い。




1997ソスN11ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 27111997

 冬の日の三時になりぬ早や悲し

                           高浜虚子

句で「冬の日」は「冬の一日」のこと。冬の太陽をいうこともあるが、そちらは「冬日」ということが多い。日照時間の短い「冬の日」。この時期の東京では、午後四時半くらいには暮れてしまう。したがって、三時はもう夕方の感じが濃くなる時間であり、風景は寂寥感につつまれてくる。昔の風景であれば、なおさらであったろう。句に数詞を折り込む名人としては蕪村を思い起こすが、この句でもまた「三時」が絶妙に利いている。「二時」では早すぎるし「四時」では遅い。ところで、今日の午後三時、あなたはどこで何をしている(していた)のでしょうか。(清水哲男)


November 26111997

 焼芋を二つに折れば鼻熱し

                           吹田孤蓬

のまんまの句。たしかに、焼芋は二つに折ってから食べる。折ると、湯気が鼻をつく。その一瞬をとらえた微笑ましい作品だ。いますぐに、焼芋を食べたくなった読者もいるのではないだろうか。私は、あまり食べない。ここ数年間は口にした覚えがない。なにせ戦後の食料不足時代に、芋ばかり食べていたので、どうしても当時のみじめな記憶が甦ってきて、食欲とは結びつきにくいからだ。最近、近くの武蔵野一中の創立五十周年記念スライドのためのシナリオを読んでいたら、弁当の中身は「芋だけだった」という記述に出会った。というわけで、わが世代は芋や南瓜には弱いのである。それと、焼芋を買って食べるという発想にもなじめない。とてつもない贅沢をするようで、後ろめたい思いがする。貧乏根性も、しっかり身についているらしい。(清水哲男)


November 25111997

 類焼の書肆より他に吾は知らず

                           森田 峠

つもよく通る町の一角が火事になった。現場にさしかかると、何軒かの店が無惨に焼け落ちている。しかし、知っている店といえば書肆(書店)だけで、隣の店もその隣も、はてどんな店だったのか。作者は思い出せず、そのことに驚いている。火事でなくても、こういうことはしばしば経験する。新しい建物が建つと、以前はここにどんな建物があったのか、しばらく考え込んだりする。ことほどさように、人間の目は不確かなものだ。見ているつもりで、自分に必要な対象以外は、ほとんど何も見ていない。この句を読んで、私もよく出入りする本屋の隣の店が、何を商っているのかを知らないでいることに気がついた。話は変わるが、昔から「三の酉」まである年は火事が多いという。今年は、その年に当たっている。火の用心。『避暑散歩』(1973)所収。(清水哲男)




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