東京も雨。12月下旬なみの冷え込みという。原稿書きにはちょうどよい具合だが。




1997ソスN11ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 29111997

 町落葉何か買はねば淋しくて

                           岡本 眸

には、こういう発想はない。もちろん故なく淋しくなることはあるが、そんなときにはたいてい居酒屋に立ち寄ってきた。女性の場合には「ヤケ買い」の衝動に駆られる人も多いというから、「淋し買い」もあるのだろう。ちょっとした買い物で心が暖まるのならば、それはそれで素敵な自己コントロール法だと思う。このようなときに、作者はどんな買い物をするのだろうか。この句が詠まれた前年の冬の作品に、こうある。「キヤラメル買つて寒夜故なく淋しめる」。買えば買ったで、より淋しさが募ってしまうこともあるわけで、キャラメルは失敗だった。キャラメルには、どうしても郷愁を誘うところがあるから、独り暮らしの大人の心には毒なのである。『矢文』(1990)所収。(清水哲男)


November 28111997

 ことごとく木を諳んじる時雨なり

                           穴井 太

たくて細かい雨が降りつづいている。その細かさは、一木一草をも逃さずに濡らしているという感じだ。あたかも時雨が、木々の名前をことごとく諳(そら)んじているかのようである。雨の擬人化は珍しい。逆の例では、うろ覚えで恐縮だが(したがって表記も間違っているかもしれないが)、佐藤春夫の詩にこんな一節があった。「泣き濡れた秋の女をしぐれだと私は思ふ……」。泣いている女の様子に時雨を感じているわけだが、この句の時雨擬人の性別は「男」だろう。それも「少年」に近い年齢だという気がする。『原郷樹林』(1991)所収。(清水哲男)


November 27111997

 冬の日の三時になりぬ早や悲し

                           高浜虚子

句で「冬の日」は「冬の一日」のこと。冬の太陽をいうこともあるが、そちらは「冬日」ということが多い。日照時間の短い「冬の日」。この時期の東京では、午後四時半くらいには暮れてしまう。したがって、三時はもう夕方の感じが濃くなる時間であり、風景は寂寥感につつまれてくる。昔の風景であれば、なおさらであったろう。句に数詞を折り込む名人としては蕪村を思い起こすが、この句でもまた「三時」が絶妙に利いている。「二時」では早すぎるし「四時」では遅い。ところで、今日の午後三時、あなたはどこで何をしている(していた)のでしょうか。(清水哲男)




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