トルコで国勢調査のため外出禁止令。そうでもしなければ人口がつかめないのだ。




1997ソスN12ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 01121997

 十二月遁れて坐る落語席

                           野地新助

さか借金取りから遁(のが)れて寄席に来たのではあるまい。だとしたら、作者のほうが落語の主人公になってしまう。些事やら大事やら、とにかく十二月は忙しい。とてもじゃないが、どんなに按配しても、時間のやりくりがつかなかったりする。そんなときに、人は妙な行動をとることがある。作者のように、不意に寄席に飛び込んじまったりするのである。私にも経験があるが、そんな暇なんぞはこれっぽっちもないのだけれど、ぼおっと落語を聞いていたりするのだ。多少とも「アトは野となれ」の心境でもあり、ここを出たら頑張ろうと自分に言い聞かせながらの執行猶予の時間なのである。師走の寄席で人気の演目は、なんといっても「芝浜」だろう。博打打ちにして大酒飲みだった桂三木助(読んでないけれど、山本昌代の『三世桂三木助』という本が新潮社から新刊で出ている)の「芝浜」は絶品だった。今夜9時30分からNHKラジオの「ラジオ名人寄席」でその「芝浜」が放送される。演者が三木助なのかどうか。先週の予告を聞き漏らしてしまったが、はじめての人には、聞いておいてソンはない噺である。(清水哲男)


November 30111997

 黄落をあび黒猫もまた去れり

                           中嶋秀子

葉の黄色と猫の黒色を対比させた絵画的な作品だ。ここで落葉はほとんど金色であり、猫もビロードのような見事な黒色でなければならない。薄汚れた野良猫の類ではない。猫を詠んだ句は多いが、このように貴族的な感じのする猫が登場する句は稀である。実景なのか、幻想なのか。もはや黒猫が舞台から去ってしまった以上、それはどちらでもよいことで、残された作者は自然の描いた巧まざる傑作を胸に抱いて、またこの場を離れていくのである。中身は違っても、こういう種類の記憶の一つや二つは、誰にでもあるだろう。俳句という装置は、そのような曰く言い難い光景を取り込むのにも適している。『花響』(1974)所収。(清水哲男)


November 29111997

 町落葉何か買はねば淋しくて

                           岡本 眸

には、こういう発想はない。もちろん故なく淋しくなることはあるが、そんなときにはたいてい居酒屋に立ち寄ってきた。女性の場合には「ヤケ買い」の衝動に駆られる人も多いというから、「淋し買い」もあるのだろう。ちょっとした買い物で心が暖まるのならば、それはそれで素敵な自己コントロール法だと思う。このようなときに、作者はどんな買い物をするのだろうか。この句が詠まれた前年の冬の作品に、こうある。「キヤラメル買つて寒夜故なく淋しめる」。買えば買ったで、より淋しさが募ってしまうこともあるわけで、キャラメルは失敗だった。キャラメルには、どうしても郷愁を誘うところがあるから、独り暮らしの大人の心には毒なのである。『矢文』(1990)所収。(清水哲男)




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