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1997ソスN12ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 10121997

 足はつめたき畳に立ちて妻泣けり

                           中村草田男

和十五年(1940)の作。草田男四十歳の冬である。帰宅すると、妻が立ったまま泣いていた。手放しに近い号泣だ。どんなに悲しい出来事が、妻の身に訪れたのだろうか。問いの言葉もままならず、しゃくりあげる妻の姿を呆然と見ているうちに、人間とは妙なもので、逆にずいぶんと冷静になってしまうことがある。泣いている妻は冷たさなど感じてはいないはずなのだけれど、作者はつい冷たい畳に思いがいってしまっている。この後、たぶん妻の姿はすうっと小さくなり、故知れぬいとしさのようなものが沸き上がってきたということなのだろう。私にも(もしかすると、あなたにも)似たような思い出はあるが、このような場でヒトサマに発表するようなことではない。それにしても、俳句はいいなア。なんだかわからないけれど、部分を書くだけで全体をなんだかわかるような様子に仕立てあげられるのだもの……。『萬緑』(1940)所収。(清水哲男)


December 09121997

 猫に顔見られゐるなり漱石忌

                           林 淳実

日九日は漱石忌。大正五年(1916)に宿痾の胃病のために亡くなった。四十九歳という若さだった。先刻から千円札の肖像をを眺めているが、とても四十代とは思えない立派な顔だ。口髭のせいかと、指で髭の部分をかくしてみると、いくらかは若いようにも見える。でも、いまどきの四十代には見当たらない貫禄のある表情だ。漱石といえば、もちろん猫。作者も自分の飼い猫に漱石の猫をダブらせていて、ひょっとするとこの猫も自分を観察しているのかもしれないという思いにとらわれている。そこが面白いとも言えるが、ちょっと芸が足りない感じ。これでは、漱石の猫に鼻で笑われてしまいそうだ。角川書店編『俳句歳時記・第三版』に敬意を表して引いておく。ところで『吾輩は猫である』を最初から最後まで読んだ人は、どのくらいいるのだろうか。奥泉光『「吾輩は猫である」殺人事件』(新潮社)の栞の著者との対談で、柄谷行人がこんなことを話している。「最後まで読んだ人は案外少ないと思いますよ。読んでいない人も少ないけど、全部読んだ人も少ない。『資本論』と同じでさ(笑)」。べつに読んでなくても構わないとは思いますが、どうなのでしょうか。つい最近、職業上の必要からですが、私は全部読みました。たぶん、三度目です。(清水哲男)


December 08121997

 妻なきを誰も知らざる年わすれ

                           能村登四郎

しい人たちとの忘年会ではない。初対面の人も、何人かいる。そんな席では誰かが、座をなごませるべく、リップ・サービスのつもりで自分の妻のドジぶりを披露したりする。「そんなのはまだ序の口だよ」と別の誰かが陽気に応じ、隣席の作者に同意を求めたのでもあろうか。そんなときに、実は妻とは死別したなどと切り出すわけにもいかず、曖昧に頷いておくことくらいしかできない。なにしろ、話し手は善意なのだから……。そして、このことで作者は傷ついたというわけではないと思う。妻がいるのが普通だという通念が、もはや成立しないほどの年齢にさしかかったみずからの高齢に、いわばしみじみと直面させられているのである。このときに一瞬、灯りのついていない我が家のたたずまいを思い浮かべただろう。会が果てれば、そこへひとり帰っていくのだ。『寒九』(1986)所収。(清水哲男)




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