忘年会。「飲み過ぎ警戒」を自分に言い渡す。かつてなかったことだ。トシです。




1997ソスN12ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 11121997

 燃えつきし焔の形シクラメン

                           田川飛旅子

治時代に渡来した外国花。別名を「篝火花(かがりびばな)」という。この句のとおりに、燃え尽きる直前の焔(ほのお)が、パッと明るくなるような美しい姿をしている。しかも、こちらの焔は長持ちする。私の好きな花のひとつだ。クリスマス近くになると花屋の店先を飾るので、冬の花と思っている人も多いだろうが、元来は春の花だ。したがって、季語も春。布施明に「シクラメンのかほり」という歌があって、いったいシクラメンに香りがあるものかどうかと話題になったことがある。物好きとしては花びらに鼻をくっつけてかいでみたが、まずは無臭というべきであろう。ところで、イタリアではシクラメンの球根を放し飼いの豚が食べるので、「豚の饅頭」と言うそうだ。だから、この歌だけはイタリア語に翻訳しないほうがよさそうである。(清水哲男)


December 10121997

 足はつめたき畳に立ちて妻泣けり

                           中村草田男

和十五年(1940)の作。草田男四十歳の冬である。帰宅すると、妻が立ったまま泣いていた。手放しに近い号泣だ。どんなに悲しい出来事が、妻の身に訪れたのだろうか。問いの言葉もままならず、しゃくりあげる妻の姿を呆然と見ているうちに、人間とは妙なもので、逆にずいぶんと冷静になってしまうことがある。泣いている妻は冷たさなど感じてはいないはずなのだけれど、作者はつい冷たい畳に思いがいってしまっている。この後、たぶん妻の姿はすうっと小さくなり、故知れぬいとしさのようなものが沸き上がってきたということなのだろう。私にも(もしかすると、あなたにも)似たような思い出はあるが、このような場でヒトサマに発表するようなことではない。それにしても、俳句はいいなア。なんだかわからないけれど、部分を書くだけで全体をなんだかわかるような様子に仕立てあげられるのだもの……。『萬緑』(1940)所収。(清水哲男)


December 09121997

 猫に顔見られゐるなり漱石忌

                           林 淳実

日九日は漱石忌。大正五年(1916)に宿痾の胃病のために亡くなった。四十九歳という若さだった。先刻から千円札の肖像をを眺めているが、とても四十代とは思えない立派な顔だ。口髭のせいかと、指で髭の部分をかくしてみると、いくらかは若いようにも見える。でも、いまどきの四十代には見当たらない貫禄のある表情だ。漱石といえば、もちろん猫。作者も自分の飼い猫に漱石の猫をダブらせていて、ひょっとするとこの猫も自分を観察しているのかもしれないという思いにとらわれている。そこが面白いとも言えるが、ちょっと芸が足りない感じ。これでは、漱石の猫に鼻で笑われてしまいそうだ。角川書店編『俳句歳時記・第三版』に敬意を表して引いておく。ところで『吾輩は猫である』を最初から最後まで読んだ人は、どのくらいいるのだろうか。奥泉光『「吾輩は猫である」殺人事件』(新潮社)の栞の著者との対談で、柄谷行人がこんなことを話している。「最後まで読んだ人は案外少ないと思いますよ。読んでいない人も少ないけど、全部読んだ人も少ない。『資本論』と同じでさ(笑)」。べつに読んでなくても構わないとは思いますが、どうなのでしょうか。つい最近、職業上の必要からですが、私は全部読みました。たぶん、三度目です。(清水哲男)




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