年末の締切は早い。物書きにとっては悪夢のような時期だ。既に一社に間に合わず。




1997ソスN12ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 15121997

 水鳥のしづかに己が身を流す

                           柴田白葉女

鳥、鴨、雁、百合鴎、鳰(かいつぶり)、鴛鴦(おしどり)など、水鳥たちはこの時期、雄はとくに美しい生殖羽になる。そんな水鳥がゆったりと水に浮かんで、我が身を流れのままにまかせている様子だ。つまり、見たままそのままの情景を詠んだ句であるが、ここには作者の、水鳥のそんな自然体での生活ぶりへの憧憬がこめられている。ごく普通の水鳥の生態を、あくせくした人間社会から眺めてみると、句のように、つい羨望の念にとらわれてしまうということだ。もちろんこのような羨望は筋違いなのだけれど、作者とてそれは承知なのだが、自然界の悠々自適を肌で感じると、このように無理な願いの心がわいてきてしまうのは「人情」というものなのだろう。暮の忙しい時期になると、決まってこの句を思い出す。(清水哲男)


December 14121997

 木がらしや目刺にのこる海のいろ

                           芥川龍之介

句には違いない。木枯らしの音と目刺しの青い色とが響きあう。巧みなものである。ただ、生活臭はまったく感じられない。このことは、実は作者が最も気にしているところで、平仮名の神経質な用い方にそれがうかがえる。句の光景に、なんとか人間の匂いを入れようと苦心している。ちなみに「凩や目刺に残る海の色」と漢字を多用してみると、そのことがよくわかるだろう。ここで芥川の最初の発想は、木枯らしと目刺しの取り合わせの妙を面白がりすぎていて、その面白がりようはモダニズムのそれに近いものだと思う。つまり、木枯らしや目刺しの本源的なありようよりも、関心は別のところにあったというわけだ。だから、これではならじと必死に本源へ引き戻している姿が、平仮名の用い方に滲み出ている。が、そのような苦闘にもかかわらず、この句は一枚のしゃれた絵なのであって、現実には届いていないと読んでおく。(清水哲男)


December 13121997

 吹雪とは鷹の名なりし放ちけり

                           勝又一透

ジオで、鷹匠(たかじょう)と話す機会があった。鷹匠は鷹を飼育し訓練して鷹狩りをする人のことだが、その人は鷹の一種である隼(はやぶさ)を同伴してきてくれ、スタジオ入りした。鷹と一緒に放送をしたのは、生まれてはじめてである。目隠しされたソヤツは、平気で放送中に糞をした……。その人の説明によると、隼には名前をつけずに番号をつけるのだそうだ。が、大鷹には、産地にちなんだ名前をつける決まりである。だから、句の鷹「吹雪」は雪国で飼育された大鷹だと知れる。鷹という鳥は、本質的には臆病であり、人間の躾けや命令には屈服しない頑固さも持つ。鷹と人間の心の交流などということはほとんど無理であるらしい。したがって、鷹匠の仕事は鷹の本性や属性を見極め見極めして根気よく育て、鷹場の地形や気性条件や獲物となる鳥の性質を研究し、もっとも獲物を捕まえられるであろう良いタイミングを見計らって鷹を空に放つということである。つまり、鷹匠は普段から膨大なエネルギーを使って、鷹の獲物獲得のため、あるいは見物人のための舞台を演出するために時間を生きているわけだ。句の「吹雪」も、そうやって演出された鷹なのであり、見ている人には実に格好がよろしく写るのである。鷹匠が生きがいを感じる一瞬を放鷹のような素早さで、しかも「『吹雪』よ、頑張れ」という愛情を込めて捉えた作品だ。(清水哲男)




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