ペルーの日本大使公邸占拠から一年。「ツパク・アマル革命運動」HPに注目したい。




1997ソスN12ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 17121997

 ビルの間の老舗さきがけ松立つる

                           和田暖泡

の一般家庭では、二十日過ぎくらいになると門松を立てたものだ。が、商店街は別で、ずっと早かった。ところが、最近はクリスマス商戦が盛んになり、まさか門松とツリーとを一緒に立てるわけにもいかず、商店街の門松は暮もギリギリにならないと見られなくなってしまった。そんなご時世のなか、ビルの谷間に頑固に昔風を残している老舗だけは、今年も例年と同じく、いちはやく門松を立てたというのである。老舗の心意気であり、意地でもあるだろう。ジングル・ベルの流れる街の一隅に、毅然として立っている門松が清々しい気分にさせてくれる。「なにがクリスマスでぇ、ベラボウめが……」という老主人の声までが聞こえてきそうな句だ。『徒然草』に「大路のさま、松立てわたしてはなやかにうれしげなるこそ」とある。かと思うと、虚子に「門松を立てていよいよ淋しき町」の一句がある。(清水哲男)


December 16121997

 ふろふきや猫嗅ぎ寄りて離れけり

                           小沢昭一

ったくもって、猫にはこういうところがある。実に、そっけない。常識的に考えて、風呂吹き大根が猫の好物とは思わないけれども、しかし匂いを嗅いだからには何かもっと別のアクションを期待するのが、作者を含めた人間の情というものだろう。それを「ふん」という表情さえも見せずに、あっちへ行ってしまう。猫だから仕方がないのであるが、こんなとき人は軽く落胆する。この句には、そんな作者の表情が見えるようだ。そしてしばしば、人間の女性にも、こうした猫タイプの人がいる。人情的な期待に応えないのだ。興味や関心は薄くても、男だったら、何とか期待に応える振る舞いをしようと努力するのだが、女性のうちには「ふん」でもなければ「すー」でもないという人がいて、我々男はそのたびに落胆してきた。この男の純情(?)を、君知るや。昔から女性が猫に例えられるのも、むべなるかな。だから、女性は可愛いのだし猫も可愛い。そういう男もゴマンとはいるけれど……。『変哲』所収。(清水哲男)


December 15121997

 水鳥のしづかに己が身を流す

                           柴田白葉女

鳥、鴨、雁、百合鴎、鳰(かいつぶり)、鴛鴦(おしどり)など、水鳥たちはこの時期、雄はとくに美しい生殖羽になる。そんな水鳥がゆったりと水に浮かんで、我が身を流れのままにまかせている様子だ。つまり、見たままそのままの情景を詠んだ句であるが、ここには作者の、水鳥のそんな自然体での生活ぶりへの憧憬がこめられている。ごく普通の水鳥の生態を、あくせくした人間社会から眺めてみると、句のように、つい羨望の念にとらわれてしまうということだ。もちろんこのような羨望は筋違いなのだけれど、作者とてそれは承知なのだが、自然界の悠々自適を肌で感じると、このように無理な願いの心がわいてきてしまうのは「人情」というものなのだろう。暮の忙しい時期になると、決まってこの句を思い出す。(清水哲男)




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