「脂ののった旬の本まぐろをスペインより生のまま空輸」という宣伝。オーレーッ。




1997ソスN12ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 20121997

 葉牡丹や過密に耐ふる外なけれ

                           川門清明

牡丹は、正月用に供される。花は四月頃に咲くが、もっぱら葉を観賞する植物だ。正直に言って、なんとなくくすんだ感じの色合いで、そんなに美しいと感じたことはない。ただ、食べられそうな葉だなと思っていたら、元祖は江戸期に渡来したキャベツなのだそうである。キャベツだから、葉っぱがギュウ詰めになっていて、つまり過密になっていて、仔細に見ると息苦しくなるような植物だ。この息苦しさに、ひたすら葉牡丹が耐えているように見えるのは、作者自身が現実の過密なスケジュールに耐えているからなのだろう。おそらく、歳末の感慨だ。昔から、葉牡丹を詠んだ句にさしたる佳句は見当たらないが、そのなかで、この句はなかなかに見事な出来栄えだと思う。葉牡丹を見直したくなってくる。(清水哲男)


December 19121997

 金色の老人と逢ふ暮れの町

                           平井照敏

和50年代の句でしょう。不思議な感触の句である。この金色の老人は何者なのであろうか。怪人二十面相の黄金仮面か、それとも単なる夕日に頬を輝かせているホームレスの年寄りか、あるいはこの庶民の難局の救済にあらわれた菩薩のたぐいなのだろうか。謎が謎を呼ぶのである。初期の石川淳の小説には、よくこうした不思議な人物が現れたが、それらは終戦直後の焼け跡、闇市によく似合っていた。この句の作られた50年代には、本当の金色老人があちこちにいたのであるが、バブル崩壊後のいま、彼等はどこにいったのであろうか。『天上大風』所収。(井川博年)


December 18121997

 歳暮ともつかず贈りて恋に似る

                           上村占魚

暮本来の意味は、日頃の好誼を相互に感謝しあうために贈り物を交換したり、酒宴を設けたりすること。したがって、忘年会も立派な「歳暮」(正式には「歳暮の礼」)のうちなのであった。が、いつの間にか、物を贈ることだけを「歳暮」と言うようになり、デパートが忙しいというわけである(もっとも、そのデパートなどの商魂が、古来の意味を今日的に転化させたと言うほうが正確かもしれないが……)。句の作者は、そんな慣習のなかで、歳暮という形で物を贈るには不似合いの相手に、プレゼントの品を贈ってしまった。相手は、職場関係でもなく姻戚関係でもなく、さりとて日頃仕事上で特別の世話になっている人でもない。平常、なんとなく好意を持っている相手なのであり、他の人たちに贈るときに、ついでのようにして発送を依頼したのだった。その振るまいを考えてみるに、なんだか「恋の心」からのようだと、作者は微苦笑している。貰った側は、おそらく何かの間違いではないかと、しばし首をかしげたことであろう。(清水哲男)




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