December 231997
数へ日の町に伸びゐる山の影
伊藤通明
今年もあとわずか……。指折り数えるかどうかは別にして、そう思うだけで、故知れぬ感慨がわいてきたりする。この季節は、一年でいちばん日照時間が短いこともあり、文字どおりに「暮れる」という感じが肌に迫ってくるようだ。句の町は山に囲まれているから、日暮れも早い。あっという間に、山の影が小さな町を暗くしてしまう。いっそう、歳末感が濃くなるのである。「数へ日」という言葉は古くからあったが、季語となったのは太陽暦採用以後らしい。つまり、たとえば江戸期に「数へ日」というときは、いまの一月下旬頃にあたるから、むしろ春近しの明るいイメージがあったはずである。そんなに、センチメンタルな雰囲気はなかった。その意味で「数へ日」は太陽暦の申し子なのであり、絶妙な現代季語と言えよう。間もなく、今年も暮れていく。(清水哲男)
September 042005
鰯雲記憶は母にはじまれり
伊藤通明
季語は「鰯雲(いわしぐも)」で秋。郷愁に誘われる雲だ。郷愁の行き着く先は幼少期だが、突き詰めていけば最初の記憶にまでさかのぼる。夢か現か、ぼんやりとしてはいるけれど、作者の記憶は「母」にはじまっていると言うのだ。どんな顔や姿で記憶された母の姿なのだろう。ミルクの匂いでもしてきそうな句だ。こういう句は、読者を誘惑する。「あなたの場合はどうですか」と、誘ってくる。私の最初の記憶は、何だったろうか。三島由紀夫は産湯のときから覚えていると書いたが、そんなにさかのぼれはしない。懸命に思い出してみるが、あれは何歳のときだったのか。たぶん、病気で寝かされていたのだろう。目覚めると夕暮れ近くで,表を通る豆腐屋のラッパの音が聞こえていた。部屋には誰もいなかったことや、その部屋が家の中のどの部屋だったかは思い出せる。そのときに「こうして寝ているのも気持ちがいいなあ」と思ったこともはっきりと……。四歳か五歳くらいだったのではあるまいか。ただし、記憶という奴はくせ者だから、これが最初の記憶だという保証はどこにもない。最初の記憶だとしても、豆腐屋のラッパがそのときのものだったのか、あるいは同じような状況が何度かあって、その都度の印象が複合されたものかもしれないのだからだ。つまり、記憶は太るものでもあれば、逆に痩せるものでもある。では、あなたの最初の記憶の場合は如何でしょうか。『西国』(1989)所収。(清水哲男)
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