昨夜は新宿で「書肆山田」忘年会。二次会へという発想すら無くなった自分に驚く。




1997ソスN12ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 24121997

 ごうごうと風呂沸く降誕祭前夜

                           石川桂郎

や石炭で沸かす風呂釜の音は、まさに「ごうごう」。とりわけて銭湯の釜の音は威勢がよかった。そんな釜音を心地よく聞きながら、作者は今日がクリスマス・イヴであったことを思い出している。イヴだからといって、別に何か予定があるわけではない。ちらりと胸の中を、華やかなイルミネーションの姿が通り過ぎていっただけのこと。これからゆっくりと熱い風呂に入り、年賀状のつづきでも書くとしようか……。西洋の大祝日に日本的な風呂を配したところが、なんとも微妙な味わいにつながっている。キリスト者は別にして、昔の庶民的なイヴのイメージとは、およそこのようなものであった。それにしても、「ごうごう」と音を発して沸く風呂が懐しい。あれは、身体の芯から暖まった。そして、どこの家庭の風呂場の屋根にも、決してサンタクロースが入れっこない細い細い煙突がついていたっけ。(清水哲男)


December 23121997

 数へ日の町に伸びゐる山の影

                           伊藤通明

年もあとわずか……。指折り数えるかどうかは別にして、そう思うだけで、故知れぬ感慨がわいてきたりする。この季節は、一年でいちばん日照時間が短いこともあり、文字どおりに「暮れる」という感じが肌に迫ってくるようだ。句の町は山に囲まれているから、日暮れも早い。あっという間に、山の影が小さな町を暗くしてしまう。いっそう、歳末感が濃くなるのである。「数へ日」という言葉は古くからあったが、季語となったのは太陽暦採用以後らしい。つまり、たとえば江戸期に「数へ日」というときは、いまの一月下旬頃にあたるから、むしろ春近しの明るいイメージがあったはずである。そんなに、センチメンタルな雰囲気はなかった。その意味で「数へ日」は太陽暦の申し子なのであり、絶妙な現代季語と言えよう。間もなく、今年も暮れていく。(清水哲男)


December 22121997

 古暦とはいつよりぞ掛けしまま

                           後藤夜半

暦とは、本来は不要になった去年の暦をのことをいうのだが、俳句では、新しい来年の暦が用意された頃の今年の暦をいう。日めくりだと、残り数枚というところか。いや、十数枚かもしれない。そのあたりがはっきりしないので、作者は疑問をそのまま句にしてしまった。トボけた味があって面白い。作者はおそらく、今年の暦と新しい年の暦とを並べて掛けているのだろう。新しい暦もよいが、使い慣れた暦には愛着がある。私などは、年末最後のゴミの日には捨てきれず、新年になってから処分する。何年か前に香港で買った暦は、いまだにちゃんと仕舞ってあるという具合。しかし、なかにはそうでない人もいるようで、柴田白葉女に「古暦おろかに壁に影おけり」がある。(清水哲男)




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