December 291997
高瀬川木屋町の煤流れけり
高浜虚子
夜ごと賑わう京都の木屋町の煤払いで出た煤が、高瀬川に流れ込んで濁っているという光景。しかし、汚くて見てはいられないというのではなく、作者はそこに歳末ならではの情緒を感じ取っている。いまではこんな光景も見られなくなったが、昔は大掃除の煤やらゴミやらを平気で川に流していた。それが当たり前だった。川は町の浄化に役立つ、いわば「装置」でもあったわけだ。それがいつの間にやら「装置」を酷使し過ぎてしまった結果、お互いの共存的バランス関係は大きく崩れ、川は人間により守られるべき聖域として位置づけられ、ためにすっかり精気を失ってしまった。もはや、昔のような川の位置づけでの句作は不可能となった以上、逆にいま書きとめておく価値のある作品だろう。(清水哲男)
December 131998
煤籠り昼餉の時のすぎにけり
山口波津女
十二月十三日は「事始(ことはじめ)」。地方によっては「正月始め」「正月起こし」とも言い、正月を迎えるための準備を始める日だ。関西では、現在でも茶道や花柳界などの人々がこの日を祝う。なかでも、京都祇園の事始は有名で、テレビや新聞でも風物詩として必ず紹介される。「京なれやまして祇園の事始」(水野白川)。そして昔は煤払い、松迎え(門松用の松を山から伐り出してくること)もこの日におこない、歳暮もこの日からだった。いよいよ年の瀬というわけである。煤払いは大掃除であるが、足手まといになる老人や病人、子供らは別室に籠らされた。狭い家だと、他家にあずかってもらう。これが「煤籠(すすごもり)」で、あるいは「煤逃(すすにげ)」とも言った。作者も煤から逃げて一室に籠っているのだが、昼餉の時を過ぎても、なかなか掃除は終りそうもない。お腹が空いてきていらいらもするけれど、若いものが頑張ってくれていることだし、それに年に一度のことなのだからと思い、ひたすら時間をやり過ごそうとしている。一人で長時間何もしないでいるのも、結構つらいものだ。(清水哲男)
December 282000
書をはこびきて四壁なり煤ごもり
皆吉爽雨
煤払い(すすはらい)の際に邪魔にならないよう、年寄りや病人が一室に籠ることを「煤ごもり」とか「煤逃げ」などと言う。足手まといになる子供らにも言うし、手伝わずに威張って自室に籠っている一家の主人にも言ったようだ。ただし、煤ごもりに用いられる部屋には、他の部屋の家具類が一時置き場として運び込まれるから、ゆっくりできる気分にはなれない。まさに「四壁」状態となる。つまり、普通の状態だと、部屋にはドアや襖などの出入り口があるので「三壁」。揚句の場合には、書物が出入り口にまでうずたかく積まれてしまっているので、どう見ても「四壁」状態とあいなったわけだ。出るに出られない。これでは籠っているのだか、押し込まれているのだかわからんなと、たぶん作者は苦笑している。ある程度住宅が広くないと、こういうことはできない。だから私には経験はないのだが、「煤ごもり」ではなく「煤逃げ」という言葉を拡大解釈すれば、ないこともない。何度か大掃除の現場から逃走して、映画館に籠ったことがあった。むろん親には別の理由をつけての話で、そんなときの映画には、さすがに身が入らなかった。そうした後ろめたい理由さえなければ、押し詰まってからの映画館は快適だ。大晦日は、特にお薦め。客が少ないからである。一度だけ、たった一人だったこともある。たしか、東京駅の横っちょにあったちっぽけな小屋(業界用語なり)だった。そうなると、逆にとても落ち着いては見ていられない気分だったけれど(笑)。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)
December 282002
銭湯や煤湯といふを忘れをり
石川桂郎
今日あたりは、大掃除のお宅が多いだろう。昔風に言うと「煤払(すすはらい)」ないしは「煤掃(すすはき)」である。十二月十三日に行うのが建前(宮中などでの年中行事)だったが、これではあまりに早すぎるので、だんだん大晦日近くに行うようになった。句の「煤湯(すすゆ)」は、煤払いでよごれた身体を洗うための入浴のこと。宮中事情は知らねども、昔は家の中で火を使うことが多かったので、煤の量たるや半端ではなかった。両親が手拭いで顔と頭をしっかりと覆ってから、掃除していた姿を思い出す。そんな大掃除を終えて、作者は「銭湯」に出かけてきた。広い浴槽で「やれやれ」と安堵感にひたっているうちに、ふと「ああ、これを『煤湯』と言うのだったな」と思い出している。銭湯だから、まわりの誰かが口にしたのだろう。「忘れをり」は、久しく忘れていたことを思い出したということだ。ただそれだけの句だけれど、思い出したことで、作者はちらりと風流を感じている。思い出さなければ、いつもの入浴でしかないのだが、思い出すことによって、今宵の入浴に味わいが出た。「煤湯」に限らず、こういうことはたまにある。何かの拍子に、久しく忘れていた言葉などが思い出され、平凡な日常にちょっとした味や色がついたりすることが……。それにしても、銭湯の数は激減しましたね。我が三鷹市では、人口一万二千人あたりに一軒の割合です。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)
December 272003
闘牛士の如くに煤を払ひけり
波多野爽波
季語は「煤払(すすはらい)」。いまは神社仏閣などの年中行事は別にして、一般には年末の大掃除の意味で使われる。今日あたり、そんな家庭も多いことだろう。句の眼目はむろん「闘牛士の如く」にあるわけだが、いったいどんな格好でどんなふうに掃除をしたのだろうか。まさかマントを颯爽と翻してなんてことはあるまいから、「闘牛士の如く」はあくまでも作者の主観に属するイメージだ。周辺の誰が見ても、闘牛士には見えるはずもない。強いて感じることがあるとすれば、常になく張り切って掃除に励む作者の姿くらいなものである。だが、そんなことは百も承知で、イケシャアシャアと闘牛士を持ちだしたところに、爽波のサービス精神躍如たるものがある。本人だって、具体的なイメージがあるのではない。なんとなく闘牛士みたいだなと思いつつ、機嫌よく掃除ができたのである。で、その突拍子もない気分をそのまま書いて、あとのことは読者にいわば託したというわけだ。どんなふうにでもご自由に想像してくださいな、と。そしてここで重要なのは、作者が自分の滑稽な世界を提出するに際して、ニコリともしていないところだ。「払ひけり」と、むしろ生真面目な顔つきである。この顔つきがあって、はじめて滑稽さが伝わるのだと、ちゃんと作者は心得ている。三流のお笑い芸人がしらけるのは、彼らは滑稽なネタを笑いながら披露するからだ。自分の話に自分で笑うようでは、世話はない。サービス精神の何たるかを履き違えているのである。『一筆』(1990)所収。(清水哲男)
December 262005
煤逃げの碁会のあとの行方かな
鷹羽狩行
季語は「煤逃げ(すすにげ)」で冬、「煤払(すすはらい)」に分類。現代風に言うならば、大掃除のあいだ足手まといになる子供や老人がどこかに一時退避すること。表に出られない病人は、自宅の別室で「煤籠(すすごもり)」というわけだ。掲句は軽い調子だが、さもありなんの風情があって楽しめる。大掃除が終わるまで「碁会」(所)にでも行ってくると出ていったまま、暗くなってもいっかな帰ってこない。いったい、どこに行ってしまったのか、仕様がないなあというほどの意味だ。この人には、普段からよくこういうことがあるのだろう。だから、戻ってこなくても、家族は誰も心配していない。「行方」の見当も、だいたいついている。そのうちに、しれっとした顔で帰ってくるさと、すっかりきれいになった部屋のなかで、みんなが苦笑している。歳末らしいちょっとした微苦笑譚というところだ。戦後の厨房や暖房環境の激変により、もはや本物の煤払いが必要なお宅は少ないだろうが、私が子供だったころの農村では当たり前の風習だった。なにしろ家の中心に囲炉裏が切ってあるのだから、天井の隅に至るまでが煤だらけ。これを一挙に払ってしまおうとなれば、無防備ではとても室内にはいられない。払う大人は手拭いでがっちりと顔を覆い、目だけをぎょろぎょろさせていた。そんなときに、子供なんぞは文字通りの足手まといでしかなく、大掃除の日には早朝から寒空の下に追い出されたものだった。寒さも寒し、早く終わらないかなあと、何度も家を覗きに戻った記憶がある。俳誌「狩」(2006年1月号)所載。(清水哲男)
December 232008
許されてゐる昼酒の大くさめ
榎本好宏
小原庄助氏を引き合いに出すまでもなく、お日さまの高いうちから飲酒するというのは好ましくないという日本の良俗がある。くしゃみやげっぷも生理的現象とはいえ、人前ですることは恥ずかしいという西洋風のお行儀がすっかり浸透したようだ。そういえば、萎んだ芙蓉みたいなくしゃみばかりになり、打上げ花火のような豪快なくしゃみを聞くことも稀になった。さらに、セクハラ、パワハラ、モラハラとハラスメントが声高に言われるなか、ずいぶん堅苦しいお約束が増えたが、それによってより健全で快適な社会になったのかは心もとない。昼酒も大くさめも、どちらも禁忌を破るゆえに成り立つ快感がある。昼酒飲みながら、遠慮がちにくしゃみなんかしなさんな、というたっぷりした空気のなかの掲句である。さらに『食いしん坊歳時記』(角川学芸ブックス )の著者でもある作者のこと、さぞかしおいしい匂いが並んでいることだろう。垂涎(あ、これもお行儀委員会に叱られそうな言葉ですね)の昼酒である。〈煤逃げをしてはみたもの出たものの〉〈梟にリラの匂ひを聴きにゆく〉『祭詩』(2008)所収。(土肥あき子)
『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます
|