今年も、I-NET界で脅威の肩凝りもど機と噂の高い「Performa520」で増殖します。




1998ソスN1ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 0111998

 霞さへまだらに立つやとらの年

                           松永貞徳

年にちなんだ句はないものかと必死に探していたら、貞徳にありました。貞徳は江戸初期の京の人。俳人にして歌人、歌学者。俳諧を文芸ジャンルとして確立した人です。エラい人なのですが、この句の出来はどうでしょうか。うーむ。かなり苦しい。おだやかな元日の朝、遠くの山々には霞がたなびいており、それが寅のまだら模様に見える。霞までが、寅の年を祝福しているようだ……。というわけですが、かなり無理をした比喩使いではないでしょうか。彼もまた、寅年にちなんだ句を必死に作ったのでしょう。必死と必死が三百年以上も経て偶会したのだと思うと、なんだか楽しい気分になってしまいました。季語は字面からいけば「霞」でしょうが、意味からすると「年立つ」で「新年」でよいと思います。(清水哲男)


December 31121997

 その前に一本つけよ晦日蕎麦

                           鷹羽狩行

麦は酒(なんで酒をわざわざ「日本酒」と特定していわなきゃいけないんだ)に限る。もっとも評者は蕎麦焼酎を呑んでいるし、いままではずっと蕎麦にビールだったから、大きなことは言えない。しかし、こういう句はいいなあ。大いに助かります。狩行句は、こういう世界でも天下一品。向かうところ敵なしです。あやかってこちとらも作りたいのだが、余裕というものがないのですね。特に年末など……。『俳句 俳句年鑑一九九八年版』の[私が選ぶ「新しい」句BEST5]藤田あけ烏選より。(井川搏年)


December 30121997

 冬波の百千万の皆起伏

                           高野素十

この海だろうか。漢字の多用効果で、いかにも冬の海らしい荒涼たる雰囲気が力強く伝わってくる。視覚的に構成された句だ。句意は説明するまでもないが、歳末に読むと、自分も含めた人間の来し方が百千万の波の起伏に象徴されているようで、しばし感慨にふけることになる。高野素十は医学の人で、俳壇では昭和初期に4S (秋桜子、誓子、青畝、素十)とうたわれた客観写生俳句の旗手であった。虚子は素十について、「磁石が鉄を吸う如く自然は素十君の胸に飛び込んでくる。文字の無駄がなく、筆意は確かである。句に光がある。これは人としての光であろう」と書いている。『雪片』(1952)所収。(清水哲男)




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