脚が痛い。雪道で転んだせいだ。故・嵯峨信之氏のお別れ会は欠礼することにする。




1998ソスN1ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1011998

 風邪声で亭主留守です分りませぬ

                           岡田史乃

かを至急に知りたくて、作者は知り合いの男性に電話をかけたのだろう。ところが、電話口に出てきたのは彼の奥さんで、応対はきわめてつっけんどんだった。どうやら、無愛想な相手は風邪を引いているらしい。途端に、作者も不愉快な気分になってしまった。この句から読み取れるのは、風邪声をダシにしての女性同士の一瞬の確執である。電話がかかってきた側は、風邪を引いているという理由におぶさって冷たい態度に出ているわけだが、かけた作者としてはたかが風邪ごときで大げさなことだと腹を立てている。お互いが彼をめぐって、ちょっとした鞘あての格好になってしまったのだ。たぶん、日頃から好感を持てないでいる同士なのだろう。電話はときに暴力にもなるが、ときには故なき暴力を受けているフリを、相手にアピールできるメディアでもある。作者は敏感に、そこに着目している。『浮いてこい』(1983)所収。(清水哲男)


January 0911998

 冬木立ばたりと人が倒れたり

                           柴崎昭雄

景かもしれないが、私は想像した光景と読んだ。そのほうが面白い。枯れ木のつづく道を歩いていた人が、突然倒れてしまう。滑って転んだというようなことではなくて、急にワケもなく倒れてしまったのだ。しかも、音もなく……。「ばたり」は音ではなく、あっけなく倒れる様子を表現している。そして、この人は永遠に起き上がることもなくて、あたりはまたしんと静まりかえった冬木立だけの世界である。トポールの白と黒の絵を知っている人なら、たとえばあの絵が動いてこうなったのだと思うと、私の解釈にさして無理のないことを納得していただけるかもしれない。滑稽と無気味が共存しているユニークな発想だ。作者の詩的出発は川柳だから、それが冬木立でありうべき光景をとらえるのに効果的な力を発揮しているのだと見た。作者は、十八歳のときのバイクによる事故が原因で車椅子生活をつづけている。青森県在住。『木馬館』(1995)所収。(清水哲男)


January 0811998

 なんとなく松過ぎ福神漬甘き

                           岡本 眸

せち料理や餅に飽きた頃のカレーライスは、新鮮な味がする。添えられた福神漬に、作者はこんなに甘い味だったのかと、感じ入った。普段、福神漬をことさらに味わって食べることはなかなかないけれど、この場合、作者はたしかに味わっているのである。そこで、なんとなく松の過ぎていった感じが、読者にもなんとなくわかるような気がしてきて微笑ましい。福神漬はむろん七福神を連想させる効果もあるわけで、作者に残るいささかの正月気分とも呼応している。それにしても、ありがたい七福神を漬物にしてしまったという「福神漬」の命名は大胆不敵だ。ちなみに福神漬の中身は、ダイコン、ナス、レンコン、ナタマメ、ウリ、シイタケ、シソの七種類。明治十八年(1885)創製の東京名産である。『冬』(1976)所収。(清水哲男)




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