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January 1111998

 傍観す女手に鏡餅割るを

                           西東三鬼

開きは、一月十一日にする地方が多い。鏡餅は刃物で切ることを忌むことから、槌などで割る。ただし「割る」は忌み詞なので、「開く」としてきた。結婚披露宴などの目出度い席で「終る」と言わないで「お開きにする」と言うのと同じである。作者は、こうした祝い事にはさしたる関心もなく、また面倒でもあるので、女性(たち)がテキパキと事を運ぶ姿をぼんやりと見ているばかり……。そして、こういうことはなにも鏡開きの場合にかぎらない。作者としては何かの折りにはしばしば顰蹙をかってきたわけで、句にはいくばくかの自嘲の色合いも含まれている。最近は、鏡餅を食べずに捨ててしまう家庭が増えたと、新聞に出ていた。理由の第一は「固いので割るのが面倒」というものであり、いまでは三鬼みたいな人が多いようだ。もっとも、この記事のネタ元は、鏡餅を小さなプラスチック製の容器に収めて売りだしたメーカーのアンケート結果からだったけれど……。(清水哲男)


January 1111999

 三寸のお鏡開く膝構ふ

                           殿村菟絲子

方差もあるが、全国的には一月十一日に鏡開を行うところが多い。最近では住宅事情もあり、あまり大きな鏡餅を飾る家は少なくなってきた。テレビの上に乗るほどの小さなものが好まれている。句の鏡餅も直径「三寸」だから、そんなに大きくはない。だが、すでに餅はカチンカチンに固くなっているから、相当に手強い相手だ。鏡開は「鏡割」ともいうように、餅を刃物で切ることを忌み、槌などを用いて割る。力と気合いが必要だ。句の場合は、ましてや非力の女性が割るのだから、どうしても「膝構ふ」という姿勢になってしまう。鏡開の直前のスナップ・ショットとして、秀逸な一句だ。軽い滑稽味も出ている。一方、村上鬼城には「相撲取の金剛力や鏡割」があって、こちらはまことに豪快で頼もしい。素手で割っているのだ。作者は、その見事さに賛嘆し感嘆し、呆れている。今年の我が家は鏡餅を飾らなかった。というか、うかうかしているうちに飾りそこねた。したがって、当然の報いとして、今夜のお汁粉はなしである。SIGH !(清水哲男)




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