初場所初日大波乱。とはいうものの、実感には遠い。場所数が多いので飽きもくるさ。




1998ソスN1ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1211998

 冬の浜骸は鴉のみならず

                           森田 峠

涼たる冬の浜辺で、鴉(からす)が死んでいる。身体が黒いので、すぐにそれとわかるのである。しかしよく見ると、死んでいるのは鴉だけではなく、名も知らぬ魚や虫や小動物の骸(むくろ)も点々としている。眼前の情景はこれだけだが、この句はもっと大きなスケールを持つ。すなわち、太古からの冬の浜辺の数えきれないほどの死骸のイメージに読者を誘うのであり、また悠久の未来のそれをも連想させるからだ。このとき、おびただしい人間の骸も見えてくるし、みずからの屍体が、いつの日かここにあっても不思議ではないと思えてくるほどだ。このように、俳句という表現装置は、時空間系列を自在に行き来できる機能をそなえているのでもある。ところで、鴉は昔、神意を伝える霊鳥と言われていた。そんな視点から読んでみると、ますます句の世界は奥深くなる。『避暑散歩』(1973)所収。(清水哲男)


January 1111998

 傍観す女手に鏡餅割るを

                           西東三鬼

開きは、一月十一日にする地方が多い。鏡餅は刃物で切ることを忌むことから、槌などで割る。ただし「割る」は忌み詞なので、「開く」としてきた。結婚披露宴などの目出度い席で「終る」と言わないで「お開きにする」と言うのと同じである。作者は、こうした祝い事にはさしたる関心もなく、また面倒でもあるので、女性(たち)がテキパキと事を運ぶ姿をぼんやりと見ているばかり……。そして、こういうことはなにも鏡開きの場合にかぎらない。作者としては何かの折りにはしばしば顰蹙をかってきたわけで、句にはいくばくかの自嘲の色合いも含まれている。最近は、鏡餅を食べずに捨ててしまう家庭が増えたと、新聞に出ていた。理由の第一は「固いので割るのが面倒」というものであり、いまでは三鬼みたいな人が多いようだ。もっとも、この記事のネタ元は、鏡餅を小さなプラスチック製の容器に収めて売りだしたメーカーのアンケート結果からだったけれど……。(清水哲男)


January 1011998

 風邪声で亭主留守です分りませぬ

                           岡田史乃

かを至急に知りたくて、作者は知り合いの男性に電話をかけたのだろう。ところが、電話口に出てきたのは彼の奥さんで、応対はきわめてつっけんどんだった。どうやら、無愛想な相手は風邪を引いているらしい。途端に、作者も不愉快な気分になってしまった。この句から読み取れるのは、風邪声をダシにしての女性同士の一瞬の確執である。電話がかかってきた側は、風邪を引いているという理由におぶさって冷たい態度に出ているわけだが、かけた作者としてはたかが風邪ごときで大げさなことだと腹を立てている。お互いが彼をめぐって、ちょっとした鞘あての格好になってしまったのだ。たぶん、日頃から好感を持てないでいる同士なのだろう。電話はときに暴力にもなるが、ときには故なき暴力を受けているフリを、相手にアピールできるメディアでもある。作者は敏感に、そこに着目している。『浮いてこい』(1983)所収。(清水哲男)




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