東京の雪はほぼ溶解。が、また今夜雪になるかもしれないという予報。もういいよ。




1998蟷エ1譛14譌・縺ョ句(前日までの二句を含む)

January 1411998

 疲れ脱ぐオーバー釦飛ばしけり

                           大串 章

い最近、私にもこういうことがあった。寒い夜を疲れて帰ってきて、コートを脱ぐ手がもどかしく、ついついやってしまったのである。もはや我が家に着いたのだから、そんなに焦ることもあるまいにと、後で苦笑した。けれども、はやく暖かい居間に入りたいという気持ちからすると、釦(ぼたん)一個が跳ね飛ぶなんぞは「メじゃない」ことも確かだ。このとき、切れ字の「けり」は「あーあ」と翻訳するのである。ところで、私たちは日本人だから、このようにオーバー・コートは玄関の上がり框で脱ぐ。客の場合には、玄関に入る前に脱ぐのが礼儀だ。そこでわいてきた疑問なのだが、靴のままで室内に入っていける国の人たちは、とくに自宅では、一般的にどこらへんでコートを脱ぐのだろうか。玄関を開ける前に脱ぐのが正解の気もするが、どなたかご教示いただければ幸甚である。『朝の舟』(1978)所収。(清水哲男)

[カリフォルニア在住の三浦勇氏よりメール]アメリカでは一般的に玄関というかドアを開けて家の中へ入った時点でコート等を脱ぎます。そこで迎えに出たホストがコートを預かり、近くのクロゼット内の衣紋掛けにかけます。パーティーなど多数の人が集まる場合で、クロゼットのスペースが足りない時は、寝室を解放して、コートはベッドの上に積み重ねます。


January 1311998

 湯豆腐やいのちのはてのうすあかり

                           久保田万太郎

逝する五週間前に、銀座百店会の忘年句会で書かれた句。したがって、辞世の気持ちが詠みこまれているとする解釈が多い。万太郎は妻にも子にも先立たれており、孤独な晩年であった。そういうことを知らなくても、この句には人生の寂寥感が漂っている。読者としても、年齢を重ねるにつれて、だんだん淋しさが色濃く伝わってくる句だ。読者の感覚のなかで、この句はじわじわと成長しつづけるのである。豆腐の白、湯気の白。その微妙な色合いの果てに、死後のうすあかりが見えてくる……。湯豆腐を前にすると、いつもこの句を思いだす。そのたびに、自分の年輪に思いがいたる。けだし「名句」というべきであろう。『流寓抄以後』(1963)所収。(清水哲男)


January 1211998

 冬の浜骸は鴉のみならず

                           森田 峠

涼たる冬の浜辺で、鴉(からす)が死んでいる。身体が黒いので、すぐにそれとわかるのである。しかしよく見ると、死んでいるのは鴉だけではなく、名も知らぬ魚や虫や小動物の骸(むくろ)も点々としている。眼前の情景はこれだけだが、この句はもっと大きなスケールを持つ。すなわち、太古からの冬の浜辺の数えきれないほどの死骸のイメージに読者を誘うのであり、また悠久の未来のそれをも連想させるからだ。このとき、おびただしい人間の骸も見えてくるし、みずからの屍体が、いつの日かここにあっても不思議ではないと思えてくるほどだ。このように、俳句という表現装置は、時空間系列を自在に行き来できる機能をそなえているのでもある。ところで、鴉は昔、神意を伝える霊鳥と言われていた。そんな視点から読んでみると、ますます句の世界は奥深くなる。『避暑散歩』(1973)所収。(清水哲男)




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