土日は一歩も外に出なかった。何年ぶりだろうか。ぼんやり暮らす隠居風愉楽体験?




1998ソスN1ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1911998

 膝掛と天眼鏡と広辞苑

                           京極杞陽

輩の読者は苦笑されるのではあるまいか。1975(昭和50)年の作だから、杞陽は六十代後半だった。私はまだなんとか五十代だけれど、膝掛はともかくとして天眼鏡は手放せないし、広辞苑も時々引いている。広辞苑とはかぎらないが、辞書の文字の小さいのにはマイってしまう。もっとマイるのは、緊急に辞書を引く必要が生じたときに、天眼鏡が見当たらないことだ。さっきまでここにあったのにと、焦れば焦るほどに発見が遅れてしまう。ときには稼働中のモニターに向けて天眼鏡を必要とするから、マイったではすまないこともある。そんなわけで、この句の切実さはよくわかる。同時に、活動性には無頓着になってしまった年齢の人々の、諦めの果ての呑気な境地みたいなものも……。誰も、自分の年齢以上の老いを体験することはできない。書きながら、思い出した。数年前に放送局のエレベーターで串田孫一さんにお会いして、思わずも「お元気そうですね」と声をかけたことがある。降りてからの串田さんのご挨拶は、こうだった。「君ねえ、七十を過ぎた人間が元気そうだと言われても、なんと返事をしていいのか、わからないじゃないか」。遺句集『さめぬなり』(1982)所収。(清水哲男)


January 1811998

 崩れゆくああ東京の雪だるま

                           八木忠栄

の冬は例外だけれど、東京は雪の少ない土地だ。たまに雪が降ると喜んで雪だるまをつくったりするが、作者のような雪国育ちからすると、これがとても貧弱なシロモノである。だるまが小さいのは仕方がないとして、あちこちに泥がついており、はじめから汚くも惨めなのだ。そんなせっかくの苦心の雪だるまも、あっという間に溶けてしまう。いや、崩れてしまう。まさに「ああ」としか言いようはあるまい。ところで、今度の大雪では、真白で立派な雪だるまがあちこちに立てられた。ポリバケツの帽子なんかをかぶって、いまだに崩れないでいる。できれは木炭の目や口がほしいところだが、さすがにそんな古典的な雪だるまは見かけなかった。先日、デュッセルドルフ近くの町から来日した女性と話していたら、ドイツでも昔は目や口に木炭を使ったそうである。ただし、鼻はニンジン。日本では、食べられる物を子供の遊びに使うことはなかったと思う。(清水哲男)


January 1711998

 風花や蹤き来てそれし一少女

                           角川源義

れていながら、風に乗って雪片が舞い降りてくることがある。これが、風花。小津安二郎の映画のタイトルにもなったが、美しい言葉だ。風花が舞うときは、かなり冷え込む。作者は、おそらく見通しのよい田舎道を歩いているのだろう。人通りもほとんどなく、少し以前から見知らぬ少女がひとり、あたかも自分につき従うかのように背後を歩いてくる。そのことで、実は作者はなんとなく暖かい心持ちになっているのだ。が、しばらくして別れ道にさしかかると、少女はついと別の道にそれてしまった。とたんに、作者の胸の内から暖かいものがすうっと消えていく……。がっかりしている。目をやると、別の道を行く少女の姿はまだ見えており、その小さな姿にしきりと風花が舞い降りているという情景だ。抒情的小品の味わい。(清水哲男)




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