Oヨ述句

January 2211998

 たいくつな白樺佇てり雪の原

                           三輪初子

句の専門家ではないのに、たまに句集を送っていただくことがある。ありがたいことだ。三輪さんの本は昨日届いていて、書名を見た途端に「あっ」と思った。私が学生の頃に出した第一詩集のそれと同じだったからである。もちろん命名の由来は違うのだが、大いにこの見知らぬ作者に親近感がわいたことは事実だ。で、読みはじめて、再び「あっ」と思ったのが、この句に出会ったときだった。「たいくつな白樺」とあったからだ。前書によれば信州は戸隠での作品のようだが、信州は白樺の多いところである。群生している。白状すると、冬の信州には行ったことはないのだけれど、この情景の感じはよくわかる。夏でも、私にとっては「たいくつな白樺」なのだから、冬野ではもっと退屈に見えるだろう。銀世界に、ただ真っ直ぐな棒がぐさぐさと突き刺さっているに過ぎない……。白樺を退屈と感じる人が、私以外にもいることを知っただけでも、この句の価値は大なるものがある。白樺好きの人には「ごめんなさい」であるが。『喝采』(1997)所収。(清水哲男)


March 2231998

 忘れものみな男傘春の雨

                           三輪初子

集を読むと、作者は東京で「チャンピオン」というレストランを夫婦で経営しているようだ。したがって、句の忘れものの男傘は「チャンピオン」に忘れられたものである。降りみ降らずみの雨の日。店の終るころに、また雨が降りはじめた。春の雨ではあるけれど、傘を忘れていった常連の男客たちは、いまごろ傘なしで、ちゃんと家まで戻れたのだろうか。仕方なく、タクシーの順番待ちの長い列にいるのではなかろうか。そんなことが気になるのも、あまやかな春雨のせいかもしれない。それにしても傘を忘れて帰ってしまうのが、みな男ばかりとは……。やはり「女はしっかりしているなア」と、同性の作者としてもしみじみ思ったことである。句はまことにさりげないが、レストランという仕事場からならではの視角が利いている。そして、あからさまに表現はされていないが、句の奥に客との交流の心が生きている。この夜、この店に傘を忘れた男たちは、どう読むだろうか。たぶん「ふふっ」と小さく笑うだけだろう。それでいいのである。『喝采』(1997)所収。(清水哲男)


April 2342007

 師系図をたぐりし先や藤下がる

                           三輪初子

七で「あれっ」と思わされる。一般的に言って、系図や系統図は「たどる」ものであって「たぐる」ものではないからだ。両者を同義的に「記憶をたぐる」などと使うケースもなくはないけれど、「たぐる」は普通物理的な動作を伴う行為である。つまりここで作者は「師系図」を物質として扱っているのであり、手元のそれを両手で「たぐり」寄せてみたところ、なんとその先には実際の「藤(の花房)」がぶら下がっていたと言うのだ。この機知にはくすりともさせられるけれど、よくよく情景を想像してみると、かなり不気味でもある。たとえば子規や虚子の系統の先の先、つまり現代の「弟子」たちはみな、人間ではなくて群れ咲いている藤の花そのものだったというわけだから、微笑を越えた不気味さのほうを強く感じてしまう。だからと言って掲句に、師系図に批判的な意図があるのかと言えば、そんな様子は感じられない。二次元的な系統図を三次元的なそれに変換することを思いつき実行した結果、このようないわばシュール的な面白い効果が得られたと見ておきたい。この句は作者の春の夢をそのまま記述したようにも思えるし、現実の盛りの「藤」にも、人をどこか茫々とした夢の世界へと誘い込むような風情がある。『火を愛し水を愛して』(2007)所収。(清水哲男)




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