@F句

January 3011998

 前略と激しく雪の降りはじむ

                           嵩 文彦

(だけ)文彦は、生まれも育ちも北海道で、現在は札幌在住の詩人。医師。この発想は、雪の多い地方の人ならではのものだろう。「雪は天からの手紙です」と言ったのは、たしかフランスの詩人だった。が、散文的な大雪はドカンと挨拶なしに「前略」で降ってくるというわけだ。それにしても「前略」とは言いえて妙。俳諧的なおかしみが生きている。自由詩では、なかなかこんな具合には書けない。伝統定型の強みだ。しかしこの魅力は、自由詩を書く人間にとっては、大いに「毒」である。最近、この「毒」にいかれた詩人がかなり増えてきた。もとより私もその一人だが、解毒剤はあるのだろうか。たぶん、安直なそれはないような気がする。もうこうなったら、「皿」までいっしょに食ってしまおうと覚悟を決めた。しからば、その先に何があるのか。それは、誰にもわからない。『実朝』(1998)所収。(清水哲男)


April 1441998

 たばこ吸ふ猫もゐてよきあたたかさ

                           嵩 文彦

者は北海道札幌市在住。医師にして現代詩人。私と同世代で、最近は詩よりももっぱら俳句に力を入れているようだ。北海道の春の訪れは遅いので、暖かくなってくる喜びには、私のような「本土」に住む人間には計り知れないものがあると思う。だから「たばこ吸ふ猫」がいたっていいじゃないかと思えるほどに、嬉しい気分はほとんど天井知らずの高さにまで跳ね上がっている。そこで読者もまた、作者と同じ気分になって嬉しくなってしまうのだ。そういえば谷岡ヤスジの漫画に、煙管を銜えた呑気な牛が出てくるが、煙草を吸う猫も、ぜひとも彼に描いてもらいたくなった。ヒトとネコが一緒に煙草を吸いながら、あれこれと語り合う春のひととき……。うん、こいつは絶対にケッサクな漫画になるぞ。『春の天文』(1998)所収。(清水哲男)


June 1162012

 ひとかなし氷菓に小さき舌出せば

                           嵩 文彦

レビを見ていると、年中誰かが物を食べていて、「うーむ、美味い」などと言っている。かつての飢えの時代を体験した私などは、たまらなくイヤな気持ちになる。「ひと」が物を食べる行為は、いかにテレビがソフィステケートしようとも、本能の根元をさらしているわけだから、決して暢気に楽しめるようなものではない。「ああ、人間は、ものを食べなければ生きて居られないとは、何という不体裁な事でしょう」と言ったのは太宰治だが、現代はそういうことにあまりに無神経過ぎる。棒状の固い氷菓は、まず舌で舐めなければならない。かぶりついても、氷菓は容易に崩れてはくれないからだ。まず舌で舐めるのは、つまり本能が我々にそうするように強いているからそうしているのである。本能の智慧なのだ。私たちは、ほとんど例外なくアイスキャンデーをそうやって食べている。このときに「ひとかなし」と作者がわざわざ言わざるを得ない気持ちを、もしかすると飢餓を知らないひとたちはわからないかもしれない。『ランドルト環に春』(2012)所収。(清水哲男)


April 0642015

 黒鍵を打つ調律師春の猫

                           嵩 文彦

語「春の猫」は、発情期にある猫、恋猫のことである。狂ったように鳴きわめく様子は、まことにうるさくもあり哀れでもあり…。この猫と調律師を結びつけるキーが「黒鍵」だ。誰がいつごろ作ったのかは定かではないけれど、誰もが知っている曲に「猫ふんじゃった」がある。この曲は♯や♭が六つもつくので楽譜を見ると目がまわりそうになるが、ほとんど黒鍵だけを使って演奏することができる。したがって、いま調律師が打っている黒鍵の音をたどっていくと、なんとなく「猫ふんじゃった」に聞こえるというわけだ。ただしあくまでも調律師が冷静に辛抱強く何度でも黒鍵を叩いている一方で、春の猫のほうはそうはいかない。猫の身にしてみれば、冷静でも辛抱強くしてもいられないから、とにかく相手を求めてやみくもに走り出すしかないのだ。この黒鍵をはさんでの対比の妙というか、滑稽さと可笑しさと哀れさ。なかなかに面白い視点だと思う。『ダリの釘』(2015)所収。(清水哲男)


April 1542015

 花冷えを分けて近づく霊柩車

                           嵩 文彦

の開花はもちろん年によって一定ではない。今年、東京では3月末に満開になった。私は4月2日に好天に恵まれて、地元の船橋で満開の花見をした。また市川の公園で、親しい友人たちと30年以上毎年お花見をやってきたが、今年は高齢や何やかやあって男4人しか集まらず、上野の飲み屋で昼酒を飲んで、お山の葉桜をさらりとひやかして解散となりそう。さて、来年はどうなりますることやらーー。「花冷え」は、桜が咲くころに決まってやってくる寒さのことである。確かにそんな日があるし、夜桜見物は寒くてストーブを持ち込んで、ということも珍しくない。それでも桜は桜、春は春。誰の気持ちも浮き浮きする。しかし、一方で人の死は季節を選ぶことなく待ったなしである。霊柩車は花冷えのなかを走ることも、満開の花に見送られて走ることもある。文彦には詩集も詩画集も何冊かあるけれど、句集も『春の天文』から、これが4冊目である。「表現者は個に徹し、個を深く追求してゆくべきだ」「心安く自然と和合することなく」という句集のあとがきが心に残る。他の句に「隙間ある頭蓋に残る花月夜」がある。『天路歴程2014』(2014)所収。(八木忠栄)




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