1998N2句

February 0121998

 塗椀に割つて重しよ寒卵

                           石川桂郎

ぜ「寒卵」という季語があるのでしょうか。卵などは四季を通じてあるもので、特別に冬の卵が珍しいわけではない。いまの人は、誰もがそう思っていると思います。しかし、もちろん季語には季語となるそれなりの根拠があったわけです。まったく風流とは関係がないのですが、こういうことです。本来、鶏の産卵期は冬であり、とうぜんこの時期の卵は値段も下がったので、庶民の冬場の栄養補給源として格好な食物でした。だから、冬の卵は特別視されていたということなのです。……という、見事に散文的な理由。ところで、作者の観察眼はなかなか細かいですね。たしかに同じ卵でも、瀬戸物の茶碗と塗椀とでは、割って落としたときの「重さ」が違うような気がします。すなわち、この句の「寒卵」は「塗椀」を得たことによって、はじめて風流な卵になれたというわけなのです。(清水哲男)


February 0221998

 炬燵出て歩いてゆけば嵐山

                           波多野爽波

波は京都に暮らしていたから、そのまんまの句だ。「写生の世界は自由闊達の世界である」と言っていただけあって、闊達の極地ここにありという句境である。名勝嵐山には気の毒だが、ここで嵐山は炬燵並みに扱われている。そういえば、嵐山の姿は炬燵に似ていなくもないなと、この句を読んだ途端に思った。京都という観光地に六年ほど住んだ経験からすれば、嵐山なんぞは陰気で凡なる山という印象である。とくに冬場は人出もないし、嵐山は素顔をさらしてふてくされているようにしか見えない。観光地で観光業とは無縁に暮らしていると、名勝も単なる平凡な風景の一齣でしかないのだ。喧伝されている美しさや名称など、生活の場では意識の外にある。その一齣をとらえて、作者は「ほお、これが嵐山か」と、あらためて言ってはみたものの、それ以上には何も言う気になっていない。闊達とは、深く追及しないでもよいという決意の世界でもある。そこが面白い。『骰子』(1986)所収。(清水哲男)


February 0321998

 豆をうつ声のうちなる笑ひかな

                           宝井其角

撒きは、奈良時代から行われていた厄払いの行事だ。もともとは中国周時代の宮廷の風習であったという。まあ「鬼は外、福は内」などムシのよい話で、宮中などではともかく、庶民には「笑ひ」をふくむ一種の娯楽性の強い行事として行われてきたようだ。戸板康二が書いている。「私の祖父は仙台の人だが、節分の豆撒きに『鬼は外福は内』と言ったら、そばで『ごもっとも』といえと孫の私に命じた。いわれた通りにしていたが、あとで考えると、私はそういって逃げだす鬼の役だったのである」。まさに笑いをふくんでいる。ごもっとも、である。江戸の其角もまた、この光景には「ごもっとも」と言うにちがいない。撒いたあとで、年の数だけ豆を食べる風習もある。私のような年齢になってくると、こればかりは「ごもっとも」と言うわけにはいかない。豆に歯が立たないからだ。いや、もはやガリリと歯を立てる勇気に欠けているからである。うろ覚えで申し訳ないが、たしか小寺正三にこんな句があった。「もうあかん追儺の豆に歯がたたず」。ごもっとも。(清水哲男)


February 0421998

 部屋に吊した襁褓に灯つき今日立春

                           飴山 實

褓は「きょうほう」と読む。元来は赤子を包む「かいまき」のことを言った。転じて、おむつ(おしめ)。この場合は「おむつ」だろう。いまでは貸しおむつや使い捨てのおむつが普及していて、部屋でたくさんのおむつを干す光景を見かけなくなった。が、昔はこの通りで、部屋中におむつが吊るしてあった。夕暮れになって、その部屋に灯がともされる。いつもと変わらぬ様子ではあるが、今日が立春だと思うと、作者はうっとおしさよりも心にも灯を感じている。言葉だけでも「春」は心を明るくしてくれる。「きょうほう」と「きょう」の語呂合わせも面白い。もう二十年以上も前、ギタリストの荘村清志さんのお宅にうかがったことがある。通された部屋の壁には数本のギター、頭の上にはそれ以上のおむつが吊るしてあった。なんだか、とても「いいな」と思ったことを覚えている。『おりいぶ』(1959)所収。(清水哲男)


February 0521998

 うすらひをゆつくり跨ぎ和菓子店

                           丹沢亜郎

菓子店の前の道に薄氷(うすらひ)がはっている。それをゆっくりと跨いで店に入る。この句の命は「ゆつくり」にある。「ゆつくり」が和菓子店の存在を際立たせている。不思議なもので、洋菓子店には急ぎ足で入っても違和感を感じないが、和菓子店には「ゆつくり」入りたいと思う。句のように薄氷がはっていれば、ばりりと踏んづけたりもしないのである。和菓子独特のつつましやかな雰囲気が、こちらの心に伝染するからだろうか。つつましい人に会うと、こちらまでそんな気分になるように……。三鷹や武蔵野には、けっこう和菓子店が多い。通りすがりにのぞくと、赤や黄の色彩が目立ちはじめた。春である。『盲人シネマ』(1997)所収。(清水哲男)


February 0621998

 倖かひとり鳥貝の寿司食ふは

                           小池一覚

は「しあわせ」。「寿司」は夏の季語だが、この場合は「鳥貝」で春。鳥貝とはまた奇妙な名前だ。味が鶏肉に似ているからだとか、軟体部が小鳥の形に似ているからだとか、命名の根拠には諸説がある。冬から春にかけてが旬だ。作者の好物なのだろう。多少懐に余裕があったので、一人で寿司を食べている。ひさしぶりに幸せな気分だ。食べているうちに、しかし、だんだんとさびしくなってくる。なんだか、家族や職場の同僚をさしおいて、自分一人だけがいい気になっているような気がしてきたのである。軽い自己嫌悪の気分に見舞われている。つまり、こっそりと贅沢をしている自分が嫌になりつつあるというところだろう。先日ラジオで、退役した外交官が「国連の明石さんが遊びにみえて、寿司でもつまもうかということになって……」と、気楽に話していた。この話を聞くまで、私は「寿司をつまむ」という表現をすっかり忘れてしまっていた。「つまむ」には元来の意味である単なる食べ方もあるが、こう寿司が高価になってくると、金持ちの余裕みたいなニュアンスもくっついてくる。私など、「つまみに行こうか」などと言ったことはない。ところが、今でも「つまむ」と日常的に気楽に言える人が、存在するのである。ただし、寿司をちょっと「つまめる」身分の人には、この句の味はわからないだろう。(清水哲男)


February 0721998

 二月商戦眉目秀麗のピエロ得て

                           ねじめ正也

から「二八(にっぱち)」といって、二月と八月は商売人の厄月。物が売れない月である。そこで商店街では、いろいろと工夫をこらして客寄せをする。作者のところでは、にぎやかしにピエロを雇うことにしたのだが、やってきたその人の素顔は眉目秀麗の美男子だったので、みなびっくりした。と同時に、美男子のピエロに一抹の不安も感じている。なにせピエロといえば、親しみやすい愛敬が売り物なのだから、こんな美男子に本当にピエロがつとまるのか、という不安である。しかし、しかるべきルートを通しての話なので、商店街としてはもはや前進あるのみ。やるっきゃない、のである。というわけで、半信半疑のままに「いい男のピエロ」に「二月商戦」の宣伝を託しての複雑な心境を詠んだ句と見た。このとき、作者は東京は杉並区高円寺で乾物屋を経営していた。長男である作家・ねじめ正一の小説『高円寺純情商店街』に、町の雰囲気や人々の模様が活写されている。なお、句の作者であるねじめ正也氏は、この二月二日に七十九歳で他界された。合掌。『蝿取リボン』(1991)所収。(清水哲男)


February 0821998

 春淺し止まり木と呼ぶバーの椅子

                           戸板康二

近、バーというところには行ったことがない。若いころには気取りもあってよく出かけたが、ちゃんとしたバーは神経が疲れていけない。料金も馬鹿にならない(こちらの理由が本音?!)。ほっとするためには、大衆酒場にかぎる。太宰治の写真で有名な銀座の「ルパン」には何度か入ったことがあるが、椅子はまさに「止まり木」で、座ると足が宙に浮いた。この句も、そんな高い椅子に腰掛けての発想だろう。浅いとはいえ、春は春だ。「止まり木」にとまる春鳥になったような気分も悪くはないと、作者は上機嫌である。上手な句でもなんでもないが、この気分はいまどきの呑み助けにも気持ち良く通じるだろう。はしゃいだ句も、たまにはいいものだ。作者は著名な演劇評論家であり、推理小説も書いた。1993年没。『袖机』(1989)所収。(清水哲男)


February 0921998

 うすぐもり都のすみれ咲きにけり

                           室生犀星

見事ッ。そんな声をかけたくなるほどに美しい句だ。前書に「澄江堂に」とあるから、芥川龍之介に宛てたものである。田端付近の庭園か土手で、咲きはじめの菫をみつけたのだろう。いつもの年よりよほど早咲きなので、早速龍之介に一筆書いて知らせたというわけだ。意外に早い菫の開花に、作者はもちろん興奮を覚えているのだが、そこはそれ抒情詩の達人犀星だけあって、巧みにおのれの興奮ぶりを隠している。彼の俳句は余技ではあるけれど、興奮をそのまま伝えるのが野暮なことは百も承知している。実景ではあろうが「うすぐもり」と出たのは、そのためである。これで作者は粋になった。つづいて「都のすみれ」で、花自体をも粋に演出している。ちっぽけな花をクローズアップしてみせるという粋。さりげないようでいて、この句ではそうした作者の工夫が絶妙な隠し味になっている。受け取った芥川は、すぐに隠し味がわかっただろう。にやり、としたかもしれない。独自の抒情を張って生きるのは、なかなか大変なのである。(清水哲男)


February 1021998

 紅梅や見ぬ恋作る玉すだれ

                           松尾芭蕉

意としては、こうだ。とある家の簾の下りた部屋の前庭に、紅い梅の花が咲き匂っている。その美しさはすだれの奥の女性の姿を彷彿とさせ、いまだ見ぬその人への恋心がつのってくる……。と、さながら恋に恋する少年のような心持ちを詠んでいるのだが、このときの芭蕉は既に四十六歳。もっとも「反古の中から出てきた句」だとわざわざ添え書きしてあるから、本当にずっと若いときの句かもしれないし、あるいは照れ隠しなのかもしれない。キーワードは「玉すだれ」で、簾の美称である。実用的にはいまどきの上等なカーテンであるが、心理的には恋の遮蔽物だったことを知らないと、この句はわからない。古くから、和歌では恋しい人を隔てるものとして詠みつがれてきている。間違っても、芸人の使う「ナンキン玉すだれ」ではありませんよ(笑)。なお、紅梅を詠んだ芭蕉の句はこの一句だけ。芭蕉にしてはあまり出来のよくない作だとは思うけれど、その意味で珍重されてきているようだ。なお、季語は「紅梅」。対して「白梅」という季語はない。「白梅」が「梅」一般という季語に吸収され「紅梅」が独立したのは、その艶やかさもさることながら、「紅梅」のいささかの遅咲きに着目した古人の繊細な時間感覚からなのだろう。(清水哲男)


February 1121998

 受験期の教師集まりやすきかな

                           森田 峠

師の側から受験期を詠んだ句。作者は高校教諭(国語科担当)であったから、この時期は多忙だったろう。教え子の進学希望に際しては、いろいろな科目の教師たちにも相談をしなければならない。試験が終ったら終ったで、生徒たちの出来が気になる。何かというと、集まることが多くなる。職員室は、受験一色だ。職員室ももちろん一つの社会であるから、さまざまな人間関係が渦巻いている。それが受験という一大イベントの季節をむかえると、日頃の人間関係は良くも悪くも「水入り」となる。否も応もなくなってしまう。そんな教師たちのひそやかなドラマを、生徒は知らない。知らないから、やがて「賀状来ずなりし教へ子今いづこ」などということになりがちだ。私もこの正月に、恩師から先に賀状をいただくという大失態をやらかしてしまった。『避暑散歩』(1973)所収。(清水哲男)


February 1221998

 去勢の猫と去勢せぬ僧春の日に

                           金子兜太

の境内で、猫と僧侶が暖かい春の日差しを浴びている。一見、微笑を誘われるような長閑(のど)かな光景だ。この長閑かさをそのまま詠んでも句になるが、作者はもう一歩踏み込んでいる。長閑かさのレベルで満足せず、生臭さを嗅ぎ出している。これが兜太の詩人の目だ。一つの光景をどのように見るかは、もちろん人さまざまである。自由である。ただし、一般に長閑かさを見る目は、ほとんど何も見ようとはしていない。見ることを拒否することで、心の安定を保とうとする。一種の精神健康法だ。それはそれで、作者も否定はしないだろう。けれども、人には見えてしまうということが起きる。この場合は、自然の摂理という一点において、両者は全く異形の関係にある。理不尽にも生殖を禁じられた猫と、信仰の理から色欲をみずからに禁じた僧侶と……。そして、この取り合わせがこのように表現されたとき、私を含めて多くの読者は思わずも笑ってしまうのだ。だが、この黒い笑いは、いったいどこから来るのであろうか。『詩經國風』(1985)所収。(清水哲男)


February 1321998

 庭石を子の字はみだし春の昼

                           杉本 寛

者の自註がある。「父が好きで庭の処処に石が置いてある。悪戯ざかりの長男が、よく楽書きをする。見て見ぬ振りをする父の姿が面白かった」。幼子が持っているのはローセキだろうか。子供の書く字は大きいから、庭石からもはみ出してしまう。春昼のスナップ写真のような句だ。落書きといえば、最近はとんとお目にかからなくなった。たまに見かけるのは、若者達がスプレーを吹きつけて「三多摩喧嘩連合只今参上」(これは実際に我が家の近所に書いてある)などと書くアレくらいなもので、幼児のソレを見ることがない。路上で遊べなくなったせいだ。昔はよく、アスファルトの道に延々とつづく列車の絵などが書いてあったものだ。それを踏み付けにすることがはばかられて、踏まないように歩いた経験を持つ読者も多いのではあるまいか。いまどきの子供向きの施設には「落書きコーナー」があったりするが、そんなサービスは落書き精神に反している。第一、よい子の落書きだなんて面白くも何ともないのである。『杉本寛集』(1988)所収。(清水哲男)


February 1421998

 赤い椿白い椿と落ちにけり

                           河東碧梧桐

梧桐初期の代表作。教科書にも出てくる。が、厄介な句だ。碧梧桐の師匠だった正岡子規は、この句の椿を既に根元に落ちている状態だと見た。しかし、そうではなくて、映画のスローモーションのように、二つの椿が落ちつつある過程を詠んだと見る専門家も多い。「落ちにけり」はどちらにでも解釈可能だから、どちらが正しいとももちろん言えない。私の好みからすると「スローモーション」派になるが、現代ムービーの技術に毒された感じ方かもしれないとは思う。ところで、椿の花は、この句のように「散る」のではなく「落ちる」のである。山国で暮らしていた子供の頃には何度となく目撃したが、その様子は子供心にも「痛み」を感じさせられるものであった。偶然に見かけるだけなのだけれど、よい気分はしない。この句を日本画のように美しいと言う人もいるが、逆に作者は椿の落ちる不愉快を詠んだのかもしれない。あるいは、時代への川柳的な諷刺句かもしれぬ。後に自由律に転じた碧梧桐のことだから、そういうことも十分に考えられる。つまり、俳句はこのように曖昧なのだ。上り調子の巧みな俳人ほど、曖昧な句を作ってきた。私たちの人生と同じように、しかし曖昧だからこそ、俳句は面白いのである。(清水哲男)


February 1521998

 将来よグリコのおまけ赤い帆の

                           清水哲男

句自註など柄でもないが、六十回目の誕生日に免じてお許しいただきたい。子供の頃、なけなしの小遣いをはたいて、せっせとグリコを買っていた時期がある。告白すれば「おまけ」が欲しかっただけで、飴をなめたいわけではなかった。現代のグリコは知らないが、敗戦直後の本体はそれほど美味ではなかった。後に熱中した「紅梅キャラメル」(こちらの「おまけ」は巨人選手カード)も同様だった。「おまけ」の小箱にはさまざまなセルロイド製の玩具が入っており、取り出す瞬間のゾクゾクする気分がたまらなかった。「なあんだ」とがっかりしたり、「やったあ」と大満足したりと……。それだけのために、全財産(!)をはたいていた。そうした子供の熱中を思うにつけ、どんな子供にも「将来」があるのであり、でも「将来」にはグリコの「おまけ」ほどの保証もないことを思い合わせると、まことに切ない気分になってくる。本物の赤い帆が待ち受けている子供など、皆無に近いのだから。そんな思いから発した句なのであるが、飛躍し過ぎだろうか。……し過ぎでしょうね。なお、この句は筑摩書房『グリコのおまけ』に再録されている。掲載に当たって編集者が必死に「赤い帆」のおまけを探してくれたが、見つからなかった。したがって、句の写真には赤白模様の帆のヨットが使われている。「赤い帆」のおまけは実在しなかったのかもしれない。『匙洗う人』(1991)所収。(清水哲男)


February 1621998

 見にもどる雛の売場の雛の顔

                           岡田史乃

ういうことって、時々ありますね。買い求めたいというのではなく、もう一度よく見て、記憶にとどめておきたい衝動にかられることが……。このように、誰もが「思い当たる」世界を描くのは、俳句ならではの表現法でしょう。自由詩は多く説得する文学ですが、俳句は多くしゃらくさい説得など拒否する文学とも言えるかと思います。現実の事物や現象に取材して、自らの感性を読者の「心当たり」の方向に開いていくのですから、簡単にできることではありません。それこそしゃらくさい個性とやらを、いかに消すか。あるいは、いかに隠すか。誰にでも一応は可能な文学の、もっとも困難なポイントはここでしょう。妙なことを言うようですが、俳人は、その意味でジャーナリスト感覚がないと大成できないような気がします。たとえば正岡子規を「寝たきりジャーナリスト」、富田木歩を「座りっぱなしジャーナリスト」などと考えてみると、それこそ「心当たり」がいろいろと出てきそうです。あと半月ほどで雛祭。娘たちが小さかった頃は、テレビの上に学年雑誌の付録のお雛様を飾っていました。小学館よ、ありがとう。『ぽつぺん』(1998)所収。(清水哲男)


February 1721998

 ひた急ぐ犬に会ひけり木の芽道

                           中村草田男

吹きはじめた木々の道に早い春を楽しみながら歩いていると、向こうから犬がやってきた。なにやら真剣な顔つきで、作者には目もくれずに急ぎ足のまますれちがって行ってしまった。それだけのことだが、余程の事情がありそうな犬だと思わせているところがユニークで面白い。そういえば、昔は犬が単独で歩いていた。大きな犬がやってくると、たじろいだりしたものだ。目を合わせないようにして、平気な振りをしてすれちがうのがコツで、決して元来た道を走って逃げたりしてはいけない。そう、親たちから教えられていた。いまの犬はみな飼い主と一緒だから、怖そうな犬でも飼い主の制御力を信頼して平気ですれちがえる。犬なりの事情や感情を読み取らなくてもよくなってしまった。安心になった。それにきっと犬の側にも、いまでは「ひた急ぐ」事情など発生しなくなってしまっているのだろう。完全に飼育されきってしまわないと、犬も生きられない時代になったということだろう。やれやれ……。『中村草田男句集』(1952)所収。(清水哲男)


February 1821998

 木々のみな気高き春の林かな

                           塩谷康子

語にもいろいろある。句の「気高き」などもその一つだろう。気高い山といえば、昔は富士山が定番だったけれど、いまでは富士山を形容して「気高い」とはほとんど言わなくなった。この山の場合は権力がいいように「気高く」扱ってきた歴史があるから(富士山のせいじゃない)、べつに気高いと思わなくても構わないのだが、しかし、この言葉が象徴する「品格」一般がないがしろにされている事態には承服しかねる。「上品」「下品」も、いまや死語に近くなっているのではないか。言葉の生き死にには、当然歴史的社会的背景があり、経済優先の世の中では「品位」などなくたって構わないし、日本版ビッグバン(変な言葉だ)が進行していけば、ますます「下品」が下品と承知しないではびこるのだろう。一方では、しかし作者のように、木々の「気高さ」を素直に実感として感じている人が存在していることも確かなわけで、経済の暴走族どもにいいように言葉を引き倒されるのはたまらない。そのような無惨を許さないためにも、たとえば俳句は「気高さ」をもっと詠んで欲しいと思った。『素足』(1997)所収。(清水哲男)


February 1921998

 たたずみてやがてかがみぬ水草生ふ

                           木下夕爾

りかかった小川か池か、ふとのぞくと今年ももう水草が生えてきている。しばらくたたずんで見ていたが、美しさに魅かれていつしかかがみこんで眺めることになった。いかにも早春らしい明るい句だ。私の田園生活は子供のときだけだったから、まさかかがみこむようなことはなかったが、明るい水面を通して水草が揺れている様子を見るのは好きだった。唱歌の「ハルノオガワハサラサラナガル(戦後になって「サラサラいくよ」に改訂)」はフィクションではなく、実感の世界であった。岸辺では猫柳のつぼみがふくらみかけ、幼さの残る青い草たちが風に揺れていた。この季節が訪れると、農家も、そして農家の子もそろそろ忙しくなってくるのだが、それでも本格的な春がそこまで来ている気分は格別だった。夕爾は早稲田に学んだが、家業の薬局を継いで福山市に居住して以来、生涯故郷を離れることはなかった。『遠雷』(1959)所収。(清水哲男)


February 2021998

 初心にも高慢のあり初雲雀

                           原子公平

雀の別名は「告天子」。空高く勢いよく上がっていく様子は、まさに天のありかを告げているようだ。今年も、そんな雲雀の姿を目にする季節がめぐってきた。進学や就職の間近い時期でもあり、作者は雲雀の上昇する様に「初心」を重ね合わせているのだが、他方で世に言われる「初心忘るべからず」の純心を疑っている。斜めに見ている。言われてみれば、なるほど「初心」に「高慢」は含まれているのだと思う。おのれの身の丈など高慢にも省みない「野望」がないとは言えないからだ。だからこその「初心」とも言えるのだが、作者は若き日の自分を振り返って、後悔に近い念を覚えているようだ。過去の自己のありようへの嫌悪の心……。年齢を重ねてなお、このように鬱屈せねばならない人間とは、まことに悲しくも淋しい生き物ではないか。酒でも飲まないとやりきれない。そんな気分になってしまう。『酔歌』(1993)所収。(清水哲男)


February 2121998

 美しく木の芽の如くつつましく

                           京極杞陽

人の理想像を求めた句だろう。実像の写生だとすれば、かくのごとき女性と親しかった作者は羨ましいかぎりであるが……。「木の芽の如く」という比喩が印象的だ。木の芽そのものも初々しいが、この比喩を使った杞陽も実に初々しい。清潔な句だ。実はこの句は、戦前(1936年)のベルリンで詠まれている。というのも、当時若き日の杞陽はヨーロッパに遊学中で、日本への帰途ベルリンに立ち寄ったところ、たまたまベルリンに講演に来ていた高浜虚子歓迎の句会に出席することになり、そこで提出したのがこの句であった。虚子は大いにこの句が気に入り、後に「ホトトギス」(1937年12月号)に「伯林俳句会はたとひ一回きりで中絶してしまつたにしましても、此の一人の杞陽君を得たといふことだけでも意味の有ることであつたと思ひます」と書いているほどだ。以後、作者は虚子に傾倒していく。外国での虚子との偶然に近い出会いから、京極杞陽は本格的な俳人になったのである。その意味では、出世作というよりも運命的な句と言うほうが適切だろう。『くくたち上巻』(1946)所収。(清水哲男)


February 2221998

 うららかや涌き立つ鐘のするが台

                           入江亮太郎

駿河台(東京・神田)の鐘といえば、昔からニコライ堂のそれと決まっている。にぎやかな音でうるさいほどだが、涌(わ)き立つ感じは希望の春に似合っている。作者の母の生地でもあり、この鐘の音には特別な思い入れがあっての一句だろう。「ニコライの鐘や春めく甲賀丁」とも詠んでいる。戦後の流行歌に「青い空さへ小さな谷間……」という歌い出しの「ニコライの鐘」というヒット曲があって、この鐘が全国的に有名だった時代もあった。「うるさいほど」と書いたが、これは私の実感で、受験浪人時代に鐘のすぐそばの駿台予備校(現在とは違う場所にあった)に通っていたことがあり、鳴りはじめると講師の声が聞こえなかった思い出がある。したがって、間違ってもこの句のような心境ではなかったのだが、今となってはやはり懐しい音になった。ひところ騒音扱いされて鳴らさなくなったと新聞で読んだ記憶があるが、今はどうなのだろうか。駿河台界隈には、めったに行かなくなってしまった。『入江亮太郎・小裕句集』(1997)所収。(清水哲男)


February 2321998

 菜の花の地平や父の肩車

                           成田千空

村暮鳥の「いちめんのなのはな」はつとに有名だが、作者はそんな風景のなかにある。幼かったころ、やはり「いちめんのなのはな」のなかで、父が肩車をしてくれたことを思いだしている。とんでもなく高いところに上ったような気分で、怖くもあり嬉しくもあった。いま眼前の菜の花の様子は昔とちっとも変わってはいないし、父のたくましい肩幅の広さも昔のままにちゃんと覚えている。こうやってあのころと同じように地平に目をやっていると、不意に父が現われて、また肩車をしてくれそうな感じだ。ここで父をしのぶ作者の心理的構造は、野球映画『フィールド・オブ・ドリームス』にも似て、「自然」に触発されている。母をしのぶというときに、多くは彼女の具体像からであるのに比べて、父親はやはり抽象的な存在なのだろう。肩車という行為自体が、非日常的なそれだ。しかりしこうして、なべて男は対象が誰であれ、なんらかのメディアを通すことによってしか想起されない生き物であるようだ。男は、女のようには「存在」できないらしいのである。「俳句」(1997年6月号)所載。(清水哲男)


February 2421998

 筐から筐をとり出すあそび鳥雲に

                           折笠美秋

(はこ)を開けると、元の筐よりも少し小さい筐が入っていて、その筐を開けると、また次の筐が入っている。どこまで開けても筐また筐という遊びの魅力は、どこにあるのだろうか(ロシア人形にも同じ仕掛けのものがある)。筐の中の筐という発想は、同型のものがどんどん小さくなって消えていくわけだから、一種のアニメーション効果をねらったものだ。そしてこの効果は、子供心に喪失のはかなさを魅力的に伝える働きをする。ちょうどそれは、これからの季節、渡り鳥が雲の中に消え去っていくように見える不思議な魅力と重なっているようだと、作者は言うのである。戦争中に学童疎開をテーマにした「父母のこゑ」という歌があって、そこには「山のいただき/雲に鳥」というフレーズが出てくる。鳥ですらも故郷に帰れるのに、子供らは帰れない……。子供たちよ「望み大きく育てよ」と、この歌は遠くはるかな故郷より呼びかける父母の声で終っている。小さな子供たちが雲に入る鳥にさえ憧憬を抱いたとき、その喪失感はいかばかりだったろう。彼らもみな、六十代になった。(清水哲男)


February 2521998

 白梅に昔むかしの月夜かな

                           森 澄雄

月夜ではないだろう。春とはいえ、梅の頃の夜はまだ寒いので、月は冬のそれのように冴えかえっている。冷たい月光を浴びて、梅もまたいよいよ白々と冴えている。夜は人工のものを隠してくれるから、さながら「昔むかしの」月夜のようだ。古人も、いまの自分と同じ気持ちで梅を見たにちがいない、作者はいつしか、古人の心持ちのなかに溶けこんでいく……。そんな自分を感じている。それにしても「昔むかし」とは面白い言葉だ。「荒城の月」のように「昔の光」と言ってしまうと「昔」の時代が特定される(この場合はそれでよいわけだ)が、「昔むかし」とやると時代のありかは芒洋としてくる。ご存じのように英語にも同様の表現があり、なぜこういう言い方が必要かということについては、落語の『桃太郎』でこましゃくれたガキが無学の父親にきちんと説明している。もっとも、桃太郎が活躍した時代を必死に突き止めて見事に特定した学者もいるというから、こうなるとどちらが落語の登場人物なのかわからなくなってくる。『四遠』(1986)所収。(清水哲男)


February 2621998

 鮒よ鮒あといく春の出会いだろう

                           つぶやく堂やんま

りは、鮒(ふな)にはじまり鮒に終る。そういうことを言う人がいる。小学生の頃、どういうわけか鮒釣りが好きだった。生来短気なくせに、鮒を釣るときだけは、じいっと水面のウキを眺めて飽きなかった。釣ったバケツの中の鮒は、母が七輪で焼いて残らず晩ご飯のおかずになった。……と書くだけで、そのときの味がよみがえってくる。子供だったから、作者のような心境にはならなかったけれど、季節のめぐりとともに遊んだり働いたりする人は、誰しもがこうした感慨を抱いて生きていく。いまにして、そのことが痛切にわかってきたような気がする。作者は自分の作品を俳句ではなく「つぶやき」だと言う。作品様式を「つぶやっ句」と称している。いうところの「俳句」にまでは結晶させないゾという意志の強さに「つぶやっ句」独自の考え方と心意気と美学とがあって、私は好きだ。しかし、この「句」もまた俳句からすると立派な発句にはちがいなく、たぶん俳句は「つぶやっ句」と共存して、今後の「いく春」をも生きつづけていくことになるのだろう。考えてみれば、ほとんどの俳句は「つぶやき」にはじまっているのだからである。『つぶやっ句観音堂』(1995)所収。(清水哲男)


February 2721998

 根分して菊に拙き木札かな

                           小林一茶

ーデニング流行の折りから、ひところは死んでいたにも等しい「根分け」という言葉も、徐々に具体的に復活してきた。菊や花菖蒲などの多年草を増やすには、春先、古株の間から萌え出た芽を一本ずつ親根から離して植えかえる必要がある。これを「根分け」という(菊の場合は「菊根分」と、俳句季語では特別扱いだ)。一茶は四国旅行の途次、根分けされた菊に備忘的につけられた木札を見かけて、にっこりとしている。あまりにも拙劣な文字を判読しかねたのかもしれないが、その拙劣さに、逆に根分けした人の朴訥さと几帳面さとを読み取って、とても暖かい気分にさせられている……。現代のように、誰もが文字を書けた時代ではない。読み書きができるというだけで一目も二目も置かれた時代だから、たとえ小さな木札の文字でも、注目を集めるのが自然の成り行きであった。そのことを念頭に置いて、あらためてこの句を読み返してみると、一茶の目のつけどころの自然さと、その自然さを無理なく作品化できる才能とが納得されるだろう。(清水哲男)


February 2821998

 残雪や黒き仔牛に黒き母

                           矢島渚男

州あたりの田園風景だろうか。空はあくまでも青く、山々に残る雪はあくまでも白い。そんな風景のなかで、まっ黒な耕牛の親子がのんびりと草を食んでいる。色彩のコントラストが鮮やかな一句だ。農繁期を間近に控えた田園地帯でよく見かけた光景だが、機械化の進んだ現代では、もう見られないだろう。こんなのどかな季節は、しかし一瞬で、間もなく牛も人も泥と汗にまみれる日々がやってくるのである。だからなおのこと、牛の親子の姿が牧歌的に写るのだ。それに、仔牛はまだ鼻輪をつけられていない。実際、鼻輪のない耕牛を見ているとどこか頼りないが、他方でとてつもない自由な雰囲気を感じさせられる。とても気持ちがすっきりしてくる。作者もおそらくそんな心境で、しばらく微笑しながら黒い親子を眺めていたのだろう。『梟』(1990)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます