私宛の郵便物で7桁の番号が記載されているのは半分程度。個人通信では皆無に近い。




1998ソスN2ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1021998

 紅梅や見ぬ恋作る玉すだれ

                           松尾芭蕉

意としては、こうだ。とある家の簾の下りた部屋の前庭に、紅い梅の花が咲き匂っている。その美しさはすだれの奥の女性の姿を彷彿とさせ、いまだ見ぬその人への恋心がつのってくる……。と、さながら恋に恋する少年のような心持ちを詠んでいるのだが、このときの芭蕉は既に四十六歳。もっとも「反古の中から出てきた句」だとわざわざ添え書きしてあるから、本当にずっと若いときの句かもしれないし、あるいは照れ隠しなのかもしれない。キーワードは「玉すだれ」で、簾の美称である。実用的にはいまどきの上等なカーテンであるが、心理的には恋の遮蔽物だったことを知らないと、この句はわからない。古くから、和歌では恋しい人を隔てるものとして詠みつがれてきている。間違っても、芸人の使う「ナンキン玉すだれ」ではありませんよ(笑)。なお、紅梅を詠んだ芭蕉の句はこの一句だけ。芭蕉にしてはあまり出来のよくない作だとは思うけれど、その意味で珍重されてきているようだ。なお、季語は「紅梅」。対して「白梅」という季語はない。「白梅」が「梅」一般という季語に吸収され「紅梅」が独立したのは、その艶やかさもさることながら、「紅梅」のいささかの遅咲きに着目した古人の繊細な時間感覚からなのだろう。(清水哲男)


February 0921998

 うすぐもり都のすみれ咲きにけり

                           室生犀星

見事ッ。そんな声をかけたくなるほどに美しい句だ。前書に「澄江堂に」とあるから、芥川龍之介に宛てたものである。田端付近の庭園か土手で、咲きはじめの菫をみつけたのだろう。いつもの年よりよほど早咲きなので、早速龍之介に一筆書いて知らせたというわけだ。意外に早い菫の開花に、作者はもちろん興奮を覚えているのだが、そこはそれ抒情詩の達人犀星だけあって、巧みにおのれの興奮ぶりを隠している。彼の俳句は余技ではあるけれど、興奮をそのまま伝えるのが野暮なことは百も承知している。実景ではあろうが「うすぐもり」と出たのは、そのためである。これで作者は粋になった。つづいて「都のすみれ」で、花自体をも粋に演出している。ちっぽけな花をクローズアップしてみせるという粋。さりげないようでいて、この句ではそうした作者の工夫が絶妙な隠し味になっている。受け取った芥川は、すぐに隠し味がわかっただろう。にやり、としたかもしれない。独自の抒情を張って生きるのは、なかなか大変なのである。(清水哲男)


February 0821998

 春淺し止まり木と呼ぶバーの椅子

                           戸板康二

近、バーというところには行ったことがない。若いころには気取りもあってよく出かけたが、ちゃんとしたバーは神経が疲れていけない。料金も馬鹿にならない(こちらの理由が本音?!)。ほっとするためには、大衆酒場にかぎる。太宰治の写真で有名な銀座の「ルパン」には何度か入ったことがあるが、椅子はまさに「止まり木」で、座ると足が宙に浮いた。この句も、そんな高い椅子に腰掛けての発想だろう。浅いとはいえ、春は春だ。「止まり木」にとまる春鳥になったような気分も悪くはないと、作者は上機嫌である。上手な句でもなんでもないが、この気分はいまどきの呑み助けにも気持ち良く通じるだろう。はしゃいだ句も、たまにはいいものだ。作者は著名な演劇評論家であり、推理小説も書いた。1993年没。『袖机』(1989)所収。(清水哲男)




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