起居を妨げている本が、目勘定で一千冊ほどある。捨てたいのだが、捨てられない。




1998ソスN2ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2321998

 菜の花の地平や父の肩車

                           成田千空

村暮鳥の「いちめんのなのはな」はつとに有名だが、作者はそんな風景のなかにある。幼かったころ、やはり「いちめんのなのはな」のなかで、父が肩車をしてくれたことを思いだしている。とんでもなく高いところに上ったような気分で、怖くもあり嬉しくもあった。いま眼前の菜の花の様子は昔とちっとも変わってはいないし、父のたくましい肩幅の広さも昔のままにちゃんと覚えている。こうやってあのころと同じように地平に目をやっていると、不意に父が現われて、また肩車をしてくれそうな感じだ。ここで父をしのぶ作者の心理的構造は、野球映画『フィールド・オブ・ドリームス』にも似て、「自然」に触発されている。母をしのぶというときに、多くは彼女の具体像からであるのに比べて、父親はやはり抽象的な存在なのだろう。肩車という行為自体が、非日常的なそれだ。しかりしこうして、なべて男は対象が誰であれ、なんらかのメディアを通すことによってしか想起されない生き物であるようだ。男は、女のようには「存在」できないらしいのである。「俳句」(1997年6月号)所載。(清水哲男)


February 2221998

 うららかや涌き立つ鐘のするが台

                           入江亮太郎

駿河台(東京・神田)の鐘といえば、昔からニコライ堂のそれと決まっている。にぎやかな音でうるさいほどだが、涌(わ)き立つ感じは希望の春に似合っている。作者の母の生地でもあり、この鐘の音には特別な思い入れがあっての一句だろう。「ニコライの鐘や春めく甲賀丁」とも詠んでいる。戦後の流行歌に「青い空さへ小さな谷間……」という歌い出しの「ニコライの鐘」というヒット曲があって、この鐘が全国的に有名だった時代もあった。「うるさいほど」と書いたが、これは私の実感で、受験浪人時代に鐘のすぐそばの駿台予備校(現在とは違う場所にあった)に通っていたことがあり、鳴りはじめると講師の声が聞こえなかった思い出がある。したがって、間違ってもこの句のような心境ではなかったのだが、今となってはやはり懐しい音になった。ひところ騒音扱いされて鳴らさなくなったと新聞で読んだ記憶があるが、今はどうなのだろうか。駿河台界隈には、めったに行かなくなってしまった。『入江亮太郎・小裕句集』(1997)所収。(清水哲男)


February 2121998

 美しく木の芽の如くつつましく

                           京極杞陽

人の理想像を求めた句だろう。実像の写生だとすれば、かくのごとき女性と親しかった作者は羨ましいかぎりであるが……。「木の芽の如く」という比喩が印象的だ。木の芽そのものも初々しいが、この比喩を使った杞陽も実に初々しい。清潔な句だ。実はこの句は、戦前(1936年)のベルリンで詠まれている。というのも、当時若き日の杞陽はヨーロッパに遊学中で、日本への帰途ベルリンに立ち寄ったところ、たまたまベルリンに講演に来ていた高浜虚子歓迎の句会に出席することになり、そこで提出したのがこの句であった。虚子は大いにこの句が気に入り、後に「ホトトギス」(1937年12月号)に「伯林俳句会はたとひ一回きりで中絶してしまつたにしましても、此の一人の杞陽君を得たといふことだけでも意味の有ることであつたと思ひます」と書いているほどだ。以後、作者は虚子に傾倒していく。外国での虚子との偶然に近い出会いから、京極杞陽は本格的な俳人になったのである。その意味では、出世作というよりも運命的な句と言うほうが適切だろう。『くくたち上巻』(1946)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます