モスクワ放送で働く人と電話で話した。在籍十年以上の外国人はみなクビだそうだ。




1998ソスN2ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2621998

 鮒よ鮒あといく春の出会いだろう

                           つぶやく堂やんま

りは、鮒(ふな)にはじまり鮒に終る。そういうことを言う人がいる。小学生の頃、どういうわけか鮒釣りが好きだった。生来短気なくせに、鮒を釣るときだけは、じいっと水面のウキを眺めて飽きなかった。釣ったバケツの中の鮒は、母が七輪で焼いて残らず晩ご飯のおかずになった。……と書くだけで、そのときの味がよみがえってくる。子供だったから、作者のような心境にはならなかったけれど、季節のめぐりとともに遊んだり働いたりする人は、誰しもがこうした感慨を抱いて生きていく。いまにして、そのことが痛切にわかってきたような気がする。作者は自分の作品を俳句ではなく「つぶやき」だと言う。作品様式を「つぶやっ句」と称している。いうところの「俳句」にまでは結晶させないゾという意志の強さに「つぶやっ句」独自の考え方と心意気と美学とがあって、私は好きだ。しかし、この「句」もまた俳句からすると立派な発句にはちがいなく、たぶん俳句は「つぶやっ句」と共存して、今後の「いく春」をも生きつづけていくことになるのだろう。考えてみれば、ほとんどの俳句は「つぶやき」にはじまっているのだからである。『つぶやっ句観音堂』(1995)所収。(清水哲男)


February 2521998

 白梅に昔むかしの月夜かな

                           森 澄雄

月夜ではないだろう。春とはいえ、梅の頃の夜はまだ寒いので、月は冬のそれのように冴えかえっている。冷たい月光を浴びて、梅もまたいよいよ白々と冴えている。夜は人工のものを隠してくれるから、さながら「昔むかしの」月夜のようだ。古人も、いまの自分と同じ気持ちで梅を見たにちがいない、作者はいつしか、古人の心持ちのなかに溶けこんでいく……。そんな自分を感じている。それにしても「昔むかし」とは面白い言葉だ。「荒城の月」のように「昔の光」と言ってしまうと「昔」の時代が特定される(この場合はそれでよいわけだ)が、「昔むかし」とやると時代のありかは芒洋としてくる。ご存じのように英語にも同様の表現があり、なぜこういう言い方が必要かということについては、落語の『桃太郎』でこましゃくれたガキが無学の父親にきちんと説明している。もっとも、桃太郎が活躍した時代を必死に突き止めて見事に特定した学者もいるというから、こうなるとどちらが落語の登場人物なのかわからなくなってくる。『四遠』(1986)所収。(清水哲男)


February 2421998

 筐から筐をとり出すあそび鳥雲に

                           折笠美秋

(はこ)を開けると、元の筐よりも少し小さい筐が入っていて、その筐を開けると、また次の筐が入っている。どこまで開けても筐また筐という遊びの魅力は、どこにあるのだろうか(ロシア人形にも同じ仕掛けのものがある)。筐の中の筐という発想は、同型のものがどんどん小さくなって消えていくわけだから、一種のアニメーション効果をねらったものだ。そしてこの効果は、子供心に喪失のはかなさを魅力的に伝える働きをする。ちょうどそれは、これからの季節、渡り鳥が雲の中に消え去っていくように見える不思議な魅力と重なっているようだと、作者は言うのである。戦争中に学童疎開をテーマにした「父母のこゑ」という歌があって、そこには「山のいただき/雲に鳥」というフレーズが出てくる。鳥ですらも故郷に帰れるのに、子供らは帰れない……。子供たちよ「望み大きく育てよ」と、この歌は遠くはるかな故郷より呼びかける父母の声で終っている。小さな子供たちが雲に入る鳥にさえ憧憬を抱いたとき、その喪失感はいかばかりだったろう。彼らもみな、六十代になった。(清水哲男)




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