東京は春の雪です。牡丹雪から霙へ。昨夕の雷からなんだか変な天候でしたが……。




1998ソスN3ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0131998

 沖に降る小雨に入るや春の雁

                           黒柳召波

本農一・尾形仂編『近世四季の秀句』(角川書店)の「春雨」の項で、国文学者の日野龍夫がいきなり「春雨は、すっかり情趣が固定してしまって、陳腐とはいうもおろかな季語である」と書いている。「月様、雨が。春雨じゃ、濡れてゆこう。駕篭でゆくのはお吉じゃないか、下田みなとの春の雨」では、なるほど現代的情趣の入り込む余地はない。そこへいくと近世の俳人たちは「いとも素直に春雨の風情を享受した」ので、情緒纏綿(てんめん)たる名句を数多く残したと日野は書き、この句が召波の先生であった蕪村の「春雨や小磯の小貝ぬるるほど」などとともに、例証としてあげられている。蕪村の句も見事なものだが、召波句も絵のように美しい。同時代の人ならばうっとりと、この情景に心をゆだねることができただろう。しかし、こののびやかさはやはり日野の言うように、残念ながら現代のものではない。だから、この句を私たちが味わうためには、どこかで無理に自分の感性を殺してかからねばならぬ、とも言える。これはいつの時代にも付帯する後世の人間の悪条件ではあるが、その「悪」の比重が極端に加重されてきたのが「現代」である。(清水哲男)


February 2821998

 残雪や黒き仔牛に黒き母

                           矢島渚男

州あたりの田園風景だろうか。空はあくまでも青く、山々に残る雪はあくまでも白い。そんな風景のなかで、まっ黒な耕牛の親子がのんびりと草を食んでいる。色彩のコントラストが鮮やかな一句だ。農繁期を間近に控えた田園地帯でよく見かけた光景だが、機械化の進んだ現代では、もう見られないだろう。こんなのどかな季節は、しかし一瞬で、間もなく牛も人も泥と汗にまみれる日々がやってくるのである。だからなおのこと、牛の親子の姿が牧歌的に写るのだ。それに、仔牛はまだ鼻輪をつけられていない。実際、鼻輪のない耕牛を見ているとどこか頼りないが、他方でとてつもない自由な雰囲気を感じさせられる。とても気持ちがすっきりしてくる。作者もおそらくそんな心境で、しばらく微笑しながら黒い親子を眺めていたのだろう。『梟』(1990)所収。(清水哲男)


February 2721998

 根分して菊に拙き木札かな

                           小林一茶

ーデニング流行の折りから、ひところは死んでいたにも等しい「根分け」という言葉も、徐々に具体的に復活してきた。菊や花菖蒲などの多年草を増やすには、春先、古株の間から萌え出た芽を一本ずつ親根から離して植えかえる必要がある。これを「根分け」という(菊の場合は「菊根分」と、俳句季語では特別扱いだ)。一茶は四国旅行の途次、根分けされた菊に備忘的につけられた木札を見かけて、にっこりとしている。あまりにも拙劣な文字を判読しかねたのかもしれないが、その拙劣さに、逆に根分けした人の朴訥さと几帳面さとを読み取って、とても暖かい気分にさせられている……。現代のように、誰もが文字を書けた時代ではない。読み書きができるというだけで一目も二目も置かれた時代だから、たとえ小さな木札の文字でも、注目を集めるのが自然の成り行きであった。そのことを念頭に置いて、あらためてこの句を読み返してみると、一茶の目のつけどころの自然さと、その自然さを無理なく作品化できる才能とが納得されるだろう。(清水哲男)




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