雛は早く仕舞わないと婚期が遅れる。この俗諺の根拠をご存じの方、ご教示乞う。




1998ソスN3ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0431998

 なんとよく泣くよ今年の卒業子

                           森田 峠

年にも、集団としての個性がある。なんとなく覇気に欠けるとか、派手好きの子が集まっているとか……。だから、それぞれの学年によって卒業式での雰囲気も異なる。教師である作者は、思いがけずにもよく泣く卒業生たちに、半ば苦笑しながらも、他方では愛情の深まりを感じている。たぶん、日頃は涙とはおよそ無縁の活発な学年だったのだろう。こういう句を読むと、誰もが自分の卒業時を思いだすにちがいない。私の高校卒業時は、涙など一切なかった。はじまると間もなく来賓の都会議員の挨拶があり、途中で誰かがいきなり「あーあ」と一声叫んだのだった。一瞬会場は真っ白になり、後は気まずい感じのままに式が終った。こんなふうでは、涙なんか流せっこない。叫んだのが誰かは知らないが、高校生にも共産党員がいた時代であり、ましてや基地の街にあった高校だ。保守系の議員の挨拶に反発しての「あーあ」だったのだろう。あれからもう四十年余の月日が流れた。当時当惑されたであろうC組担任のT先生は、矍鑠としてご健在である。『避暑散歩』(1973)所収。(清水哲男)


March 0331998

 釘を打つ日陰の音の雛祭

                           北野平八

者は雛の部屋にいるわけではない。麗かな春の日。そういえば「今日は雛祭だったな」と心なごむ思いの耳に、日陰のほうから誰かの釘を打つ音が聞こえてきた。雛祭とは関わりのない生活の音だ。この対比が絶妙である。明と暗というほどに鮮明な対比ではなく、やや焦点をずらすところが、平八句の真骨頂だ。事物や現象をややずらして相対化するとき、そこに浮き上がってくるのは、人が人として生きている様態のやるせなさや、いとおしさだろう。言うならば、たとえばテレビ的表現のように一点に集中しては捉えられない人生の機微を、平八の「やや」がきちんとすくいあげている。先生であった桂信子は「ややの平八」と評していたころもあるそうだが、「しらぎくにひるの疲れのやや見ゆる」など、「やや句」の多い人だったという。「やや」と口ごもり、どうしてもはっきりと物を言うわけにはまいらないというところで、北野平八は天性の詩人だったと思う。多くの人にとっての今日の雛祭も、多くこのようなさりげない情感のなかにあるのだろう。作者は1986年文化の日に肺癌のため死去。享年六十七歳であった。『北野平八句集』(1987)所収。(清水哲男)


March 0231998

 我も夢か巨勢の春野に腹這へば

                           河原枇杷男

養がないとは哀しいもので、句の「巨勢」を、はじめは作者の造語だと思い、春の野の圧倒的な生命感を暗示した言葉だと思っていた。結果的にはそのように読んでもさして間違いではなかったのだが、念のために辞書を引いてみたところ、「巨勢」は「こせ」と読み、現在の奈良県御所市古瀬あたりの古い地名だとあった。古代大和の豪族であった巨勢氏に由来するらしい。いずれにしても、作者は圧倒的な生命力もまた夢に終ることを、我と我が身で実感している。古代に君臨した豪族の存在が夢のようであったからには、私自身もまた夢のようなそれなのだろうと達観しかかって(!)いる。この句に接してすぐに思いだしたのは、啄木の「不来方ののお城のあとの草に臥て/空に吸はれし/十五のこころ」だった。枇杷男の句は六十歳を過ぎてのそれで、同じように「野に腹這」っても「草に臥て」も、ずいぶんと心持ちが違うところが切ない。栄枯盛衰は権力の常だと歴史は教えている。が、権力にかかわらぬ個々人は、歴史にしめくくってもらうわけにもいかないから、このように自分自身でしめくくりにかかったりするのだろう。『河原枇杷男句集』(1997)所収。(清水哲男)




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