銀行に公的資金(税金)投入。バーチャルな資本に奉仕する我らの具体的な労働。




1998N36句(前日までの二句を含む)

March 0631998

 菜屑捨てしそこより春の雪腐る

                           寺田京子

治体によるゴミの収集がなかった時代には、裏庭などに小さな穴を掘って、句のように無造作に捨てていた。春の雪は溶けやすいから、ばさっと菜屑を捨てると、すぐにその周辺が溶けて、少々汚い感じになってしまう。そんな情景を、作者は「雪が腐る」と表現した。腐るのは菜屑であって雪が腐るわけもないが、一瞬の実感としては納得できる。たしかに、いかにも「雪が腐る」ような感じがする。言いえて妙だ。ところで、このように燃えないゴミ(現代的定義とは大違いだが)は穴に捨て、紙などの燃えるゴミは庭の隅で燃やしていたころに、誰が今日のゴミ問題を予測できただろうか。ひどい世の中を歎くだけでは何もはじまらないが、菜屑は土に返すべし。菜屑くらいは勢いよくばさっと捨ててみたいものだ。来たるべき世紀の我が国は、この句が理解できない人たちでいっぱいになるだろう。もう二度と、このような情景が詠まれる時代は訪れないだろう。(清水哲男)


March 0531998

 春よ春八百屋の電子計算機

                           池田澄子

の場合の「電子計算機」はパソコンではなく、「金銭登録機」のことだろう。それまでは店先に吊るした篭に売上金を放り込んでいた八百屋が、ある日突然近代的な「金銭登録機」を導入した。親父さんは嬉しそうに、しかし照れ臭そうに、慣れない手付きで扱っている。「これからは古い考えじゃ駄目だ」くらいのことを、作者に言ったかもしれない。そんな機械を導入するほどはやっている店とも思えないが、時は春なんだから「ま、いいじゃないか」と、作者もいい気分になっている。句の季節はいつでもいいようなものだが、やはり「春」でないと、この句は成立しない。「春」はこんなふうに、理屈抜きで人を浮き浮きさせる季節だからだ。だが、もう一方で「春愁」という精神状態になることもある。ややこしくも厄介な季節なのである。同じ作者に「頭痛しと頭を叩く音や春」がある。『空の庭』(1988)所収。(清水哲男)


March 0431998

 なんとよく泣くよ今年の卒業子

                           森田 峠

年にも、集団としての個性がある。なんとなく覇気に欠けるとか、派手好きの子が集まっているとか……。だから、それぞれの学年によって卒業式での雰囲気も異なる。教師である作者は、思いがけずにもよく泣く卒業生たちに、半ば苦笑しながらも、他方では愛情の深まりを感じている。たぶん、日頃は涙とはおよそ無縁の活発な学年だったのだろう。こういう句を読むと、誰もが自分の卒業時を思いだすにちがいない。私の高校卒業時は、涙など一切なかった。はじまると間もなく来賓の都会議員の挨拶があり、途中で誰かがいきなり「あーあ」と一声叫んだのだった。一瞬会場は真っ白になり、後は気まずい感じのままに式が終った。こんなふうでは、涙なんか流せっこない。叫んだのが誰かは知らないが、高校生にも共産党員がいた時代であり、ましてや基地の街にあった高校だ。保守系の議員の挨拶に反発しての「あーあ」だったのだろう。あれからもう四十年余の月日が流れた。当時当惑されたであろうC組担任のT先生は、矍鑠としてご健在である。『避暑散歩』(1973)所収。(清水哲男)




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